敵に向かって

われわれが敵に向かって行進するとき、悪い音楽と悪い理由とが何と立派に聞こえることだろう! 曙光 557

Z会の方もそうでない方も、男性であるからには、本能的に闘争心がどこかに眠っているはずです。

何となくのジリ貧で、周りに合わせつつも、どこかでそうした細かな制限を吹っ切りたい、そんなことを思っている人は結構いることでしょう。

大きな攻撃には、窮鼠猫を噛むように闘争心が湧き起こり思いを吹っ切ることもできますが、そうでもないような細かな攻撃にはだいたい、少しダメージを受けながら耐え忍んでしまい、そのうちダメージが蓄積して修正が効かないほどになってしまうことがあります。

武尊氏の笑顔

そう言えば昨日、武尊氏の試合動画を見たりしてみました。

「アドレナリンが出すぎて笑ってしまう」

というレベルの猛者です。

試合中の笑顔を見るとこちらまでアドレナリンが出てきます。

おそらく生で見るともっと臨場感があるので、すごいことになるでしょう。

そんな感じで、どうしてもこうした「オン状態」にならず、微妙な形でずるずると生きていると、そのずるずる感からは抜け出せません。

男を決めに行く時

千原ジュニアさんの14歳でも流れていましたが、だいたい僕たち世代が男を決めに行く時、エミネム氏のLose Yourselfをテーマソングとすることが多いようです。

友人は、特に本人はやる気がしない子作りの際、嫌すぎてということなのか、その直前で足を打ち、足の先から血が流れていたそうです。「明日にしようか」という提案があったのですが、「二回、三回と何度もやらされるのは嫌だ、本能が目覚めている今しかない」と思い、奮い立ったそうです。そしてベッドルームに向かうまでの間、勝手にこの曲が脳内再生されたそうです。

闘争心を呼び起こせ

闘争、ということで「争い事はよくないですよ」という感じにもなりそうですが、奮起ともまた違う「闘争心」が起こらないと、物事が吹っ切れない時があリます。

それは「相手に勝たねばならない」という条件化とは少し違っていて、「相手の都合に甘んじている自分の状況の打破」という感じの闘争心です。

うつ状態だったりすると、その解決策として「休みましょう」というようなことが提案されることが多いですが、「もう何ヶ月も休んでるよ!」という人もいるでしょう。

休んでそれだけで治るのなら、何ヶ月も休んでいるのなら既に治っているはずです。でも、何となく身体がだるく重たいような感じがする場合もあります。

そんな時は逆に闘争心を駆り立てるようなことをした方がいいのです。

オンとオフ

オンが100でオフが0とすれば、元気な人は1日のうちで100~0までの可動域を持っています。実際はもう少しリミッターがかかっていると思いますが、概ねそんなイメージです。

ところが、そうしたうつ状態にある時は、可動域が30くらいでほぼ横ばいのような感じになっています。

力は出ないし、眠りにもつけないというような感じです。その状態で休もうと思っても、バグっているのだから休まるはずはありません。

そこで、大体の提案としては、30~0というリラックスの方向性の可動域の広げ方で語られています。

それはそれでいいですが、上が足りないのです。

運動は運動でも瞬発力のいる運動

そういうわけで、「運動をするといいぞ」ということになりそうですが、普通のウォーキング程度では、闘争心は呼び起こすことができません。歩かないよりは随分マシですが、瞬発力のいる運動の方が圧倒的に闘争心が呼び起こされます。

僕は非体育会系でスポーツは好きではないのですが、体が弱りつつも「もうだいぶ寝たぞ」という時には、こうした運動が最適だと思っています。

ただ、筋トレなどよりも実際にゲームとして楽しみながら闘争心を呼び覚ます方が適していると思います。

手軽なところであれば、卓球くらいがちょうどいいのではないでしょうか。

脇から男のニオイがするなら

適度な興奮があり、闘争心が湧き起こってきたならおそらく手足からは汗が、背中からも汗が、そして脇から男のニオイがしてくるはずです。

そしてこれは別に実際に激しい運動をしなくても呼び起こすことができます。

最近では慣れてしまって起こらなくなりましたが、頭文字Dのゲームでも十分に同じような現象が起こっていました。

実際に峠を走るとさらに同じような現象が起こりますが、やはり慣れてくるとそれは弱まってきます。

ということで、脇から男のニオイを出すという意味で文化系的にお手軽なのはゲームなどですが、共感力にもよるもののK-1の試合観戦や馳星周氏の小説などでもおそらく人によっては効いてきます。

そうして闘争心をつかむことができれば、その後に面白い現象が起こります。

闘争心が戻った時

闘争心が戻ってきた時、端的には「オレをなめるな!」的な感覚になると思いますが、そうした自尊心的な問題は後でいいので、ひとまず「オレをなめるな!」を大切にしてください。

そうすると、今まで変に受け入れていた「様々な制限」を今現在も守っている自分がバカらしくなるはずです。変な責任を感じて相手に合わせていた自分にすら怒りが生じてくるかもしれません。

「そこまで大した反発心は起こらないだろうから」ということで押し付けられた様々な「相手の都合」に怒りが生じるはずです。

怒りは苦しみであって「いけないこと」ではない

よく怒りはいけないことだという人がいます。

しかしそうしたことを見聞きしたときでも、あえて哲学的に思考してみましょう。

「いけない」ということを社会的な説得材料として利用しているに過ぎません。

怒りに善悪はありません。

怒りの瞬間の感情に苦しみを感じるのならトートロジーとして苦しいというだけです。だから極めて主観的なものです。

それを客観的に、善悪的に「いけない」というのはナンセンスなのです。

で、「怒りは苦しみですから」ということについても、怒りを苦しみだと感じた時点で、その瞬間に苦しみになるだけです。

「ただ怒りを感じた」というだけであればそれで終わりです。その場で嫌な気分がしてもその場で終わりです。

問題となるのは、その場で怒りに苦しみを感じ、その記憶が再燃し、何度も何度も同じような苦しみを感じてしまう、といったところです。怨み憎むものと会う苦しみということで、嫌な人にあったり、会ったことを思い出したり、会うことを想像したりする時に起こる精神状態は苦しいということだけだったりします(怨憎会苦)。

だから別に社会的に「いけないこと」ではありません。そうしたフィールドに持ち上げること自体が誤謬なのです。

オレをなめるな!

さて、少し脱線しましたが、「オレをなめるな!」です。

闘争心が復活したときには、細かいことが気にならなくなります。

いろいろな現象、実現を妨げていたような数々の意識上の制限に無意味さを感じるようになるはずです。

そうして感じた「何でもアリ感」を大切にしてください。

そして、100から0のうち、上が30で止まっていたものが、100になることで可動域が大幅に広がります。

集中すべき時は集中し、そこでうまい具合に疲れてくれるので、眠る時はよく眠れるようになっていくでしょう。

といっても、そうした闘争心の餌食にだけはならないように注意しましょう。

あまりそれに馴染んでしまうと、ギャンブル狂いになってしまう可能性もあります。

これは、数々の柵の中、自分の内側に殻ができてしまったときの溶解剤のようなもので、気付いた時に時折利用すると良いような方法です。

相手の予定を気にしてデートの日取りがなかなか決まらず悶々としているような状況でも、「オレをなめるな!お前が合わせろ!」と自分で設定した日取りに「決める」というようなことが起こっていくでしょう。

そのような潔さこそ、本当は求められていることが多かったりします。

敵に向かって  曙光 557

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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