懐疑の懐疑

「恰幅のよい頭にとって、懐疑は何というよい枕だろう!」― モンテーニュのこの言葉は、パスカルをいつも憤怒させた。というのは、パスカルほどよい枕をとくにそんなに強く熱望したい人はいなかったからである。だが、何が欠けていたか?― 曙光 46

パスカルは、お父さんの税金の計算が楽になるようにと計算機を作ったり、「一人一台ってのじゃなくて、みんなで共有すれば楽なのに」という発想で、元祖公共交通機関を構想するという、ただ数学者としてのみならずカリスマ的ビジネスセンスを持った人でした。パスカルの定理の人ですね。圧力・応力の単位である「パスカル、pascal、Pa」の語源になっている人です。フランス人です。

パスカルのパンセ

そんな数学者として有名なパスカルもやはりセンチメンタルな青壮年期を過ごしたのでしょうか。「パンセ」という遺作はなかなか面白みのある書物です。実はたまに引用しています。もしかしたら一番最初の愛読書かも知れません。中公文庫版を持っています。

「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」

というフレーズも有名ですが、ひとまず少し冷めた目で様々な対象についてつぶやいています。ニーチェより先に出会った、自分塾生です。

パスカルの賭け

ただ、パスカルの賭けというものは、確率論的というのは少しおもしろみがあるものの、出だしが妄想というより社会的洗脳からはじまっていますから、あれほどの才能があるにもかかわらず、残念な結果になっています。

パスカルの類例として

パスカルの類例としてあげられる親鸞は、もっとお粗末です。初期仏教とは異なり、「宗教として」の地獄極楽という前提から、確率論的に「意見」を作っているだけですから、パスカルとともに、「思考実験としては面白味がある」ものの、出だしから間違っているという残念な結果になっています。親鸞自体はただの「説得」として使っていたのかもしれません。

しかし、やはり全体像を見ても、キリスト教との類似が指摘されるように、どんどん変な方向に進んでいってしまったことは否めません。

「何か上位の存在がいて、その存在が自分を助けてくれる」という構図は、根本からおかしなことです。ただの死への恐怖心への自己説得です。騒ぐ心を頭で押さえつけようとしているようなことです。

上位の存在に嫌われて大変なことになる
=体育会系の発想

「○○をしなければ、△△になる」という一種の脅しであり、今何かをやっておかなければ、「未来」に何か「良くないこと」が起こるという考えです。すいませんが未来は妄想です。

「今」しかなく、未来は頭の中だけで起こっている予測です。そのことがわかったのならば、そういう恐怖心が自然になくなります。

頭でだけ理解しているときでも、恐怖心は一旦沈んだりするでしょう。そのことが頭、つまりは論理的、公式的に「理解する」というだけでなく、身にしみてわかるための手法が、元々語り継がれているような修行法、つまり集中力ならサマタ瞑想、最後まで行くならヴィパッサナー瞑想(正確には単に「ヴィパッサナー」)です。

これらはしなければならない、しなければ「誰か上位の存在に嫌われて大変なことになる」というタイプのものではありません。体感でいずれ勝手にわかってしまう、というタイプのものです。

群れたり、寄付したり、拝んだりするようなことが一切必要ないやり方です。体育会系の呪縛から解放されます。

アイツの中にいるまがい物の偽物

本来お金もかかりませんが、半端にわかったような人が「セミナー」と称してビジネスにしていることがありますのでご注意ください。

知っていて教えているからといって、お金をとったり、自分を崇めるようにということを言うような人は、アイツの中にいるまがい物の偽物ですから、気をつけてください。

「誰か上位の存在に嫌われて大変なことになる」というのは、体育会系の発想です。

「きちんと拝めば救われる。もしこれが間違ったやり方でも、元々普通にしていたら地獄に落ちる前提だから、やるだけやったほうがいいだろう」というのは、未来が妄想ということを「わかっていない」から起こる考えであり、妄想による帰結であり、ある種の「意見」です。

消えた懐疑

懐疑の懐疑 曙光 46

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ