感謝を拒絶する

われわれはなるほど願い事は拒絶しても差し支えない。しかし感謝は決して拒絶してはならない(あるいは、同じことであるが、感謝を冷たく形式的に受け取ってはならない)。これは深い侮辱である。― だがなぜなのか? 曙光 235

「感謝は決して拒絶してはならない」 「感謝を冷たく形式的に受け取ってはならない」これは、相手の行動や意志が自分の意志よりも優先されるという意味で、深い侮辱になりえます。つまり、感謝を受け取らざるをえないという一種の脅迫であり、恩を先に着せるという手法がこの世にはあるからです。

しかし、感謝はわざわざ拒絶する必要がありません。むしろ受け取ることによって、こちらも相手も双方が喜ぶという事ができます。簡単に、また表現としては多様に、そして二者間では双方を傷つけない要素が高い事柄ではあります。つまり、汎用性が高く、副作用の少ないということになりましょう。

感謝を乱発

このメリットを考えれば、いくら乱発しても良さそうですが、少しの毒が潜んでいます。一つは「受け取らざるをえない」という一種の脅迫的要素と、もう一つは感謝されたことによる幸福感を返報性に利用しようというものです。また、この副作用を利用して、宗教と絡めようとすることです。

害が無さそうな「感謝」を使って、アイツを根負けさせ、その幸福感をその宗教の教義と絡めて、何かの神仏などの存在の「おかげ」とし、ひいてはその代理人的立ち位置である教祖を崇めさせようとする試みです。

これはどこにでもある構図です。ほとんどの胡散臭い新興宗教や宗教まがいの自己啓発セミナーではこの手を使っています。返報性を利用した催眠商法でもよく用いられているでしょう(信者の値打ち)。

しかし、その団体がおかしくても、感謝がもたらす効用的なものは、間違いというわけではありません。

この少しの副作用をよくよく知りながら、闇雲に感謝を連発しないようにしましょう。

新興宗教の支部で見た危ない「目」

以前、勤め人時代に仕事で新興宗教の支部みたいなところに行かざるを得ないことがありました。普通の神経なら行きたくもないでしょうが、仕事を利用してでもないと堂々とこんなところには侵入できません。先輩に押し付けられたような形で「喜んで」その訪問先に行くことにしました。

ある手続きをしに行ったのですが、帰り際のことです。信者と思しき数人が、帰り口でイった目をしながら「ありがとう。ありがとう。ありがとうね!」の大合唱です。普段なら、皮肉でなければ言われて嫌な気分になりようもないこの言葉に非常に違和感を覚えました。

目がイッています。

ただひたすらに「ありがとう。ありがとう。ありがとうね!ありがとう。ありがとう。感謝してます!」を連呼しています。本人たちは気持ちいいのでしょうか。完全に目がイッていました。

気味が悪かったのでそそくさと帰ることにしました。

こんな時も拒絶しちゃダメ?

感謝の効用のカラクリと注意点

感謝を拒絶する 曙光 235

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

「感謝を拒絶する」への2件のフィードバック

  1. コンビニのトイレにも
    「キレイに使っていただいてありがとうございます。」って使う前から書いてあります。

  2. もしかしたら時間の同一存在と現象の先取りを理解した上でのメッセージなのかもしれません。
    ただ、それに影響されるということは、相手に力を認めたことになります。キレイに使うに越したことはないですが。

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