悪者

「孤独な者だけが悪い」と、ディドロが叫んだ。そこで直ちにルソーは致命傷を受けた感じがした。それ故に彼はディドロが正しいことを承認した。(中略)いたるところにお芝居だけを見てとる者の眼にとっては、やはり最も見事に悪いのである。 曙光 499 抜粋

世の中にはそこそこの悪者がいます。

しかしながら非難を受けて、少し肩身の狭い思いをしていることもあるので、悪者ながらに少し常に罰を与えられているような環境にいるということがあります。

それよりもさらにタチの悪い悪者は、社会の中で無害として扱われているか、その取り繕いによって善人とすら思われていたりカリスマと扱われているという人たちです。

優れた悪魔は、自分が悪魔であることを相手に悟らせません。何かしらのもっともらしい理由をつけ、自分たちをまるで善人かのように錯覚させるという術を持っています。

アイツの引力はこれと同じことです。

一見無害か、何なら「よいもの」として扱われながらも、苦しさの元凶である錯覚そのものだということです。

優れた悪魔は、悪魔と悟らせない

優れた悪魔は、すぐに悪魔とわかってしまうほど馬鹿野郎ではないはずです。

明らかに害があるものは、見つかり次第排除されるのですから、それとはわかりにくく振る舞うはずです。

病中の頃は、これを見分ける感度が凄まじかった、というよりもその頃に洞察力がさらに研ぎ澄まされたように思い返されます。

四方八方から「良い人だ」と言われている人と接してみても、「良い人のふりをしている」ことが、合間合間で読み取れるようになりました。

同時に、ある人は、「ぶっきらぼうに見えて、根本は優しい」ということもわかるようにもなりました。

「この人は自分を祝いたいわけではなく、自分を理由として馬鹿騒ぎしたいだけだ」ということもわかるようになりました。

すなわち、祝っているように見えて、人と群れて楽しい時間を過ごす「理由付け」として、僕を踏み台にしているに過ぎない、ということです。

これは疑心暗鬼ではありません。相手の本質です。

自分を祝う気持ちも少しはあるかもしれませんが、それが主たる理由ではなく、馬鹿騒ぎできないなら、出席しない、という「環境によっては祝わない」という気質が見え見えだったりしたからです。

悪魔のような理由付け

「○○のため」

とか

「○○なので」

とかいう理由をつければ、それが合理的かを考えずに、受け入れてしまうことがあります。

「地球温暖化防止ため」という謳い文句が胡散臭くてもう通じにくくなった、と思えば「ごみ減量のため」とレジ袋有料化を強制的に行った京都市と協賛スーパーのようなものです。

「それによって浮いたコストは何に使われるのか?」

それを考えられない事業主は経営者に向いていません。そこを気にしない人はビジネスには向いていません。

行政は公務員です。ビジネスパーソンではありません。

行政の力をもって強制するというのはいかがなものでしょうか。一種の談合です。

優れた悪魔は自分たちをまるで善人かのように錯覚させる

「それによって浮いたコストは何に使われるのか?」

それを覆い隠そうとするのは消費者騙しの胡散臭い詐欺師のやり方です。

行政などを使ってリサイクル料を取り出した、情けない企業とやっていることは同じです。

自称リーディングカンパニーが率先して「ユニバーサルサービス料」という名目で、誰かわからない人たちにお金を回しているのと同じような胡散臭さです。

優れた悪魔は、まるで自分たちが善人かのように相手を錯覚させます。

これは社会での他の人々だけではありません。

それよりもそんなことよりも、まず目を向けるべきは、そのような性質をもったアイツと同化しているという事実。

それに比べれば、社会問題など屁のようなものです。

アイツの引力から脱したなら、そんなことにも煩うが無くなるのですから。

隠れた人たち

悪者 曙光 499


それほど重大ではなさそうな分野においても、デマ的な情報で溢れていますが、「諸手を挙げて賛成できそうな話」であっても信用はなりません。環境や人道の問題において、「素晴らしい目標の設定だ」と思えるようなものも、結局後の利権のための布石にしか過ぎないことが多々あります。

デマを飛ばすんじゃない

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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