悪人たちの幸福

― 悪人たちの幸福

それは、衝動によって駆り立てられ、社会に洗脳されたまま恐怖心に怯え、罪悪感を許容し得たお金で、「優越感」や本能的欲求を満たすこと、といったところでしょうか。うーん、他にもありそう…

さて、今回は、先日「受けた」というよりも「付き合いで同席した」セミナーの感想とでもいきましょう。

自己啓発洗脳組のありがたいお話

いやいや、今回はゆるく行きましょう。カタイような表現ばかりで疲れる、というようなことを避けるために、という試みです。その方がスイスイ書けるような気がしたということでゆるゆるで行きます。

今回受けたセミナーというか講義のようなものは、自発的に参加したものではありません。

すべて僕が「裏で絵を描いて」と言えば意味深ですが、もっと単純に、普段頻繁に取引もあり、仲良く付き合わせていただいている、ある社長に「自己啓発洗脳組を久しぶりに生で観たい」とお願いして、そのような場を設けていただいたしだいです。

冒頭の「付き合いで同席した」とは何たる言い草でしょうか。すべて、自己啓発洗脳組の目を泳がせるための遊びにも関わらずです。

しかし、単に人で遊んでいるわけではありません。残念にも洗脳されてしまった「講師」に、洗脳を解くきっかけを、という聞こえのいいような理由ですが、当の社長には、

「設定したんだから、ちゃんと質問攻めしてくださいよ!」

と、念を押されてしまいました。

どういう意味で洗脳されているか、そしてどうして洗脳されてしまったか、今回はエッセンスだけ触れることにして、その講義の本質的な誤ちと、「それが人間を幸福にすることはない(というより、それで結局苦しんでしまう、といったほうが正しいでしょう)」、ということについて触れていきましょう。

どういう意味で洗脳されているか

いままで信じて疑ってこなかった、資本主義による「お金はあればある方が幸せになれる」というものと、「お金を稼ぐ方法の小技」ばかり紹介しているものです。

その奥には利潤というものしかありません。株式会社の本質で言えば利潤の追求しか目的ではなく、会社の持ち主である株主が、利潤を得るために役員を選んだりしているという構図で、資本主義においてはそれが間違いだとは言いません。

しかしながら、お金の本質や、お金をモノやサービスに変換して得るもの、それはすべて情報です。情報故にいくらでも操作できるのに、それをわざわざ遠回りして、時に不快な思いや、罪悪感の克服まで行ってするようなものなのか、ということを彼らは一度も疑ったことがないのでしょう。

ただ教えられるがまま、それまでの習慣からは当然のこととして、そしてその「主義」に反したことをすれば叱られ、適合していることをすれば褒められてきたという記憶があります。

その主義とは何か?

言うまでもなく先に掲げた資本主義です。

「資本主義を採用しているのだから仕方がない」と、ここで諦めさせるのも手ですが、ここで触れたいのは、その資本主義そのもののシステムしか漠然とイメージがないことが問題なのではないかということです。

つまりここでの「主義」をさらに深くまで進めると、資本家と労働者の関係における、「資本家の都合」という事になります。これは学校における教師と生徒の関係における「先生側の都合」、親子でいうところの「親の都合」です。

学校に白い靴下しか履いてはいけないのは、先生の都合です。生徒もこの世界にいる他の動植物も、何も困りません。

何故か、先生側では、黒靴下を履くのはいけないと決まっていて、先生としては、それに反する生徒がいると「指導力不足」として「先生たちの世界」で評価に影響するのでしょう。それだけの都合です。

自己啓発洗脳組は、その「資本家側の都合」の話ばかりしている、ということに気づいていないということと、その割に宗教家のようなことを言うという矛盾です。

そして、今回のセミナーでも、結局小技で顧客を騙すようなことばかり説いていました。

どうしてある種の洗脳をされてしまったか

「どうしてある種の洗脳をされてしまったか」、それは子供の時からの習慣や教育をそのまま受け取ったまではいいですが、それを本当だと思っていることです。相手側の都合なのか、だれにでも当てはまるようなものなのか、ということがよくわからないままに鵜呑みにしてしまったからです。

そしてこの手の人はある種の洗脳が解けておらず、アイツを騙すこと、そして周り(これも実体はありません)を騙すことしか考えられず、「モテたい」、「みせびらかしたい」、「すごい人と思われたい」と思っている、つまりは、自尊心をまだ主軸にしているからです。主軸にしていると言っても、それを捉えられないから、知らぬ間に振り回されていることにも気付けない、というようなことです。

そして、体育会系の思想があることも要因かもしれません。なにか疑問に思ったことがあっても、自分で吟味すること無く、自分よりすごいと認めた人の用意した「答え」を聞いて感心し、そこで考えがストップしてしまうからです。その「すごい人」自体が、呪縛の中にいるかどうかも知らずに。自分も呪縛の中にいるのなら、相手が呪縛の中にいるのかどうかも判断できないでしょう。

セミナーでの質問

セミナー内容と言っても、そんなに「レッツポジティブシンキング!」のような類ではなく、心理学的な騙しで、書庫で書いたおとり効果などです。セミナーを聞く前から全て知っていた、という虚しさもありますが、それはさておき、この時に講師が説いた内容と自己弁護は次のようなものでした。

「商品は実際にはなくてもいいんです!『すいません。売り切れです』と言えばいいんです!」

「売上を増やさなければ、従業員さんにも迷惑ですよね?取引先への支払いが遅れるわけにはいきませんよね?」

つまりは騙せということです。売上を上げるということはいいですが、確かに株式会社のあるべき姿ではありますが、お客さんを騙してまで、客単価を上げようということです。それは一種の詐欺です。

ここで言いたいのは、おとり効果という手法をどのように解釈するかです。その解釈の仕方で、その人の人間性が暴露されるようなものです。

そして、このような事を人に説いてしまえば、聞いた方は、「ということは自分も騙されているのではないか?」と疑いを持ちます。その信用力低下のことは頭にあるのでしょうか。

つまり、「この効果を薦めているということは、もちろんこの人も私に対して使っている」という推測です。ということは、教えている内容が詐欺的手法なら、「この人は今現在もこの方法を使ったりして私を騙しているのではないか」という推測からの信用の低下という点です。

せめて高級感という心理的付加価値を与える、というくらいにまで解釈して欲しいものです。ない商品をあるように装って平均客単価を上げようとしかしていない、つまりは無いものをあるかのように装う、これは相手を騙していることになります。在庫リスクを考えるとしても、せめて数量限定でも商品を用意すべきです。

自己弁護があるということは、罪悪感をもっているということです。

つまりは自分の中での消化ができていない証拠です。

資本主義としては正しくても、何かモノを買ったりサービスを受けて「幸福感」を得たいがための「お金」を得るために、罪悪感を持ったまま行動するということがトンチンカンだというようなことです。

なぜ資本主義を採用しているのか、そして狭義には資本家側の都合でしかモノを考えられないのか、それは資本主義というものが絶対的かのように見えて、そこに幸福があると「思い込まさせられている」からです。

あえてツッコまない

この時はあえてツッコみませんでした。なぜならば、細かい事例で細かな議論をしても、相手は先に言ったことを正当化するために、居直ったりするからです。

人は矛盾を嫌います。特に人前で一度言ってしまったことは、すぐに変更することはありません。完全に論破しても、頭の中では理解しても、感情の抵抗感で、反発心だけを持つでしょう。

「君子豹変す」とは、君子はすぐに考えを切り替えられるというような意味合いで、「気まぐれ」という意味ではないように、君子になるような人は、自ら理屈を理解し、頭を切り替えることができますが、自己啓発に洗脳されている状態では、理屈そのものより師匠などを優先するでしょう。まるで新興宗教、カルト教団ですね。師匠から話を聞いた時の「うおー!!!そうだったのかー!!!」という感情が先立ちます。特に体育会系思想ならば「恩」などとも絡みあい、考えを変えることは恩を仇で返すことかのように感じてしまうでしょう。

別件で一応ツッコむ

ひとまず「受け売りで、消化できていない」ということだけ気づいてもらうために、別の話の時に変化球的質問をしました。

大分類として、ある8つの概念を押さえるというようなものでしたが、

「本当に要素はそれだけですか?」

というような質問をしました。この手の話を知っていたわけではありませんでしたが、哲学的に抽象化してしまう癖が出ました。

すると講師は笑ってごまかしています。

「それはー大きく分けるとこれに分類されるんじゃないですかね?」

「いや、大カテゴリとしての要素ならば、そこに掲げてあるモノよりも抽象的な概念だと思いますが」

「まあこれは仮止めで本質ではないので」

というようなやりとりでした。それから講師は目が泳ぎっぱなし、出席者は携帯電話をいじりだしました。

今回セッティングしてくれた社長からは「さすがです」とメールが届きました(それもセミナー中です。まるで中高生の時のような雰囲気に懐かしさを感じました)。

その後の出来事

それから講師の方は、僕と話してくれないどころか、目を合わすことすらしてくれなくなりました。特に攻撃したわけでもないのにです。攻撃などするつもりはありません。その人が怯んでいるところを見ても何も嬉しくありません。できれば、まっとうに生きて欲しいのですが、僕が目を瞑ればその人は存在しなくなるように、究極的にはどうでもいいことです。

たまに、さっき言ったことと、今言っていることがチグハグな人がいます。そういう人の思考回路がよくわかりません。

何でも受け売りだと、そういうことになるのでしょう。「ずる賢く儲けたいが、善人だとも思われたい」そういう一種の競合が、そういった現象を引き起こしているのでしょう。その善人像ですら、洗脳の結果かも知れないにもかかわらずです。

小手先の技術よりも、まずは自分の心を見つめることです。

洗脳系自己啓発コンサルタントの実態

悪人たちの幸福 曙光 256

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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