悪い気質の由来

多くの人間の気質の不正なところや突飛なところ、彼らのだらしなさや節制のなさなどは、その祖先が犯した無数の論理的な不正確や、不徹底、また性急な推論などの究極の結果である。 曙光 247 前半

論理的な不正確というものは、それがどう不正確なのか知るには、通常は正確な論理というものが必要になります。しかしその不正確は、論理思考の不徹底からという原因が、容易に想像されます。つまり不正確か否かは、確定はしていないものの、「不徹底であるから、確定的ではない」ということは理屈ですぐに分かります。

この方法論をもって、すぐに盲信というものが解けるでしょう。つまり、確定か不確定かは、そのどちらも曖昧であるものの、確定的でないことがわかると、それを断言できる根拠が崩れ、根拠が崩れるのだから、ある命題を盲信することにひとまずストップがかかります。

ある主義や思想に執着する前に、徹底的に考え尽くしたのか、ということをもう一度考えねばなりません。

一つの可能性としての思考の限界までは考えてみると良いのですが、その結論の前に前提となった要素を抽象化することです。

ある必須条件や、信じている理屈が本当ならばどうなのか、もしそれが妄想だとしたらどうなのか、両面から考えていかねばなりません。

確実にあると思っているものですら、要素を分解していくと確実かどうかは推測の域を出ないことに気づきます。

論理的な徹底と不徹底

例えば、目の前に一杯のコーヒーがあるとしましょう。そこで「目の前にコーヒーがある」ということは確実かどうか、徹底して考えたほうがいいでしょう。

それは視覚情報や触覚情報として「ある」と認識したということであって、実際にあるのかは不確定です。

飲んでみて確かにコーヒーの味がしても、それは味覚と触覚の情報であって、実在しているかどうかの証拠にはなりません。

難しい論理学の記号や数式などを使う必要などどこにもありません。

しかし、確かに液体であっても水やビールではないという、識別はできます。もし実在もしないものなら、どうしてその認識結果が生じるのでしょうか。

何か他のものではない、コーヒーという概念の中に入るモノを捉えたということは、捉えたのですが、情報として捉えたというだけで、実際にあるかどうかは確定していません。

そしてその捉えた情報や認識結果は、一瞬で先の記憶を呼び返しているという構図になっており、まさに「今現在実在している」ということの根拠には成り得ません。そして飲み残したコーヒーが、また近いような経験をさせてくれるだろうということは、直前に得た情報からの記憶による推測になります。

「今、感じている」の直後に、先ほど「そう感じた」という記憶を今思い返している、ただそれだけのことです。そこに何か実在はあるのでしょうか。

悪い気質の由来 曙光 247

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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