実見

困った!困った!われわれが最もよく、最も頑固に証明しなければならないもの、それは実見である。というのは、あまりにも多くの人々には、それを見る目が欠けているからである。しかしそれを見ることはとても退屈である! 曙光 253

実見とは、その場にいて目で見て確かめる、その場に居合わせることで実際にそれを見るということになりますが、「見ることは退屈で、見る目が欠けている」ということで、この実見について触れていきます。

ひとまずは「退屈」の路線から見ていきましょう。

一種の退屈

目の前がただの絵や動画のようになった時、そこにある種の感情があっても、それとは少し距離があって、傍観者として思考や感情を追う時、一種の退屈が訪れます。

そこには確かにあるように感じていて、本当にあっても、または、無くてもひとまずは、そう感じているのだから感じていることを事実として受け入れたとしても、傍観者としての感覚は一度体感してしまえば、すぐにまたそのような距離感で物事とやり過ごすようになります。

それまで楽しんでいた様々な楽しみは、もうそんなに楽しめないかもしれません。楽しむことが良いことだという感覚も少しずつぐらついていきます。

友だちに愚痴を聞いてもらおうとか、今度飲みに行こうなんて言うことは無くなります。そんなことばかり考えている人とはどんどん距離ができてきます。

しかし、かつてなら嘆いていたような孤独への憂いはどこにもなく、むしろ諸事雑多、他人の感情や趣味嗜好、思想信条に振り回されるようなことへの憂いのほうが強くなり、そして、いずれそれに振り回される感覚もその憂いすらも無くなります。

傍から見るような感覚

目の前で現象が起こっていて、それに対応している自分すら傍から見るような感覚になります。

そのうち、人を見ていて悲しくなります。本能的な充足への命令的衝動を超え、自尊心獲得の衝動に命令されるがままに、刺激を求め、人を求め、人からの賞賛を求め、安心を求め、彷徨うように、叫ぶように生き急いでいるように見えるからです。

しかしそれも見えているだけ。見えたものを解釈し、こちらが感情移入しているからこそ起こります。そこでそんな人を手助けをしてもいいですが、こちらが憂う必要はありません。

正しく見るというような感覚は、おそらくこのような感じでしょう。唯一絶対の正しさは、もしあったとしても、人に説明することがなかなか難しいでしょう。

絶対的な基準と相対的な尺度

なぜなら、本当は絶対的な基準があったとしても、普通に生きていては、「ある基準を採用しているかどうか」、「どのような前提に立っているか」ということに左右されており、つまりはほとんどの場合、何かと比べてしか把握できず、相対的にしか測る尺度を持っていないのですから。

たとえば、ある空間上、ある主義上での正しさは、前提を定めて、それに適っているかということが確認できます。

相手への説得

他人に説明するときには、その前提をまず相手が仮止めでも受け入れた、理解した、という前提でなければ、相手への説得は叶いません。

しかしそれは、ある空間や、主義、教義というフィールドの限定をしています。そこには絶対性はありません。一種の可能性的な、仮定から導き出された論理的な帰結であって、「正しい」か否かは相対的なものです。

書物自体の正当性の証明

そこで、ある書物に書いてあったからと、それを根拠にするのは、ある種の正しさは帯びても、人への説得には、相手がその書物を根拠に置くかという大問題を抱えています。ある種、一貫性という正しさはあっても、書物自体の正当性の証明にはなりません。

目の前を流れる現象にしか過ぎない

しかしながら、相手を説得する必要はありません。相手に納得してもらったところで、何一つ変わることはないのですから。

相手を変えたところで、変えようとしたところで、それは目の前を流れる現象にしか過ぎないのですから。

実見 曙光 253

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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