子供らしい

子供のように生きる― したがって自分のパンのために戦わず、自分の行為に決定的な意義が属していると信じない― 者は、いつまでも子供らしい。 曙光 280

温泉やスーパ銭湯などに浸かっていると、他の客の中に騒がしい子どもがたまにいますが、動きまわるだけでなく「奇声を発する」という場合があります。それが集団となると狂騒と表現するのがふさわしいほどの奇声ラッシュとなります。この手の奇声は金切り声と呼ばれるような高音、高周波の奇声です。

この奇声に違和感があるのですが、もしかしたら忘れているだけで、自分もこの手の奇声を発していたのではないかと思い、両親に聞いてみると、

「そんなことは一度もなかった」

と言われました。やはり、自分は発していなかったようです。

奇声を発する子ども

事実、奇声を発する子どもは、奇声を発した直後に「自分が周りに注目されているか」を確認しています。度重なる温泉での観察で蓄積した主観データによる結果です。

公園や学校の校庭ならまだしも、人の家の前、レストランの店内、商業施設の中でも叫び放題です。

ただ盛り上がっているという感じではありません。

「私を見て!」と言わんばかりの発泡スチロールをスリスリしたような奇声です。

「キャアン」「キャーキャー!」というようなやつです。

脇で聞いている親御さんはよほど慣れているのか、都合が悪いので遮蔽効果が働いているのか、気づいていません。

「キャー!」「きゃあん!」と叫ぶ子供の奇声への対処

もちろん、盛り上がって奇声を発する場合もあります。小学生同士で下校中に盛り上がり奇声を発するという場合もあります。

鬼ごっこのように子どもを追いかけ、意図的に「キャー」という奇声を発することを煽っている大人もいます。親と思しき大人が子どもを追いかけ、子どもは「キャー」「きゃあん!」と超高音の奇声を発する、といった感じです。

あの高音の奇声を意図的に出させるというのは気が狂れています。

子供の時の気質

さて、子供の時の気質は、大人になってもずっと残ったりするという事がよく囁かれます。シニアになると、子供の頃の性格が顕著に出ると言われます。

振り返れば、小学生の頃と中学生の頃では真逆のような性格をしていました。小学生の時はまさに子供らしい子供という感じでしたが、中学生の時は毎日怒りに満ちていました。しかし変わっていたようで、本質は変わっていなかったように思います。今でもあの時のままのような気もします。

そういえば、以前おばあちゃんの遺品整理をしていると、次のようなものが出てきました。

スーパードッジ

スーパードッジ

スーパードッジ

これを見てピンとくる人はおそらく同世代でしょう。

発見した時は思わず笑ってしまいました。

毎日コロコロを読み、ドッジボールをしていたときの思い出がたくさん蘇ってきました。

おもちゃ屋と公園

当時は、街にたくさんのおもちゃ屋がありました。小学生くらいの時は、毎日のように顔を出していたような思い出がありますが、ほとんどどころか全滅に近いくらい数は激減しました。

おもちゃ屋か公園に行けば、約束をしなくても誰か友だちがいるというような頃です。話題探しや話題作りなどしなくてもコロコロやボンボンで十分でした。

ところが、20歳くらいからは玄関の前ですら携帯電話で呼び出すようなことをしないと、怪訝な目で見られるような時代になりました。

有料であればあるほど、価格がかさむものほど、その刺激が間に入ってくれないと、「間が持たない」ような付き合いです。

もっと肩の力の抜けた、特にお金をもたなくてもふらっと立ち寄れるような、そんな場所や付き合いだけで十分だと思います。

そんなことをひしひしと思うからか、実際にそんな感じで暮らしています。

子供らしい 曙光 280

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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