同情のお芝居

たとえわれわれがどのように不幸な人に関心を寄せようとも、われわれは彼の面前でいつも何かお芝居を演じている。われわれは重病人の寝台のそばにいるいしゃのあの慎重さを抱いて、われわれが考える多くのことや考えたとおりの多くのことを語らない。 曙光 383

世の中には本音を語る人は少なく、特に京都では本音を語る人は極端に少ない傾向にあります。

本当のことを言ったところで仕方ないというのが「本音」ですが、一応僕は、社会の中でもほとんど本音で生きています。

一方、「ほとんど」というのはいかなるものか、ということで、例外ケースがあるということです。

これは、「バカに話が通じないのは、相手がバカだからだ」ということに気付いたからです。本当に相手にしなくなりました。

話が通じない苦痛

「話が通じない」といっても、もちろん外国人と外国語で話すというような言語的な障壁のことではありません。

日本語を使って日本語でコミュニケーションを取るというシーンにおいての話であり、相手がバカすぎて話が通じないというたぐいのやつです。その時に苦痛が起こります。

これは一種の怨憎会苦であり、単に相手の学力が低い云々の話ではなく、変な主義にとりつかれていたりして、その主義からそれたことを理解しようとしないというような人や、自分の理解不足や知識不足を棚に上げて、話し手の方に怒りをぶつけてくるような輩と会った時に起こります。

しかし、「バカに話が通じないのは、相手がバカだからだ」ということに気づきました。洗脳されている人に話が通じないのと同じであり、そうした人格の人には話す時間と労力が無駄なのだということに気付いたという感じです。

バカがずっとバカな理由

世間では、

「小学生でもわかるように話す」

ということが推奨されているようですが、相手に合わせる必要はありません。

「簡単にわかりやすく」

などと簡単に言いますが、時に「基礎中の基礎が抜けている場合」はその基礎中の基礎から説明しなければならないということを忘れてはなりません。

理解できない人は、何年も学習し直さないと理解できないほどにバカなのですから仕方ありません。

理解に関する責任の転嫁

たまに「理解できないのは話し手のせいだ」ということを言う人もいますが、それは話し手側が自省する時に使うような概念であって、理解できない側が「あんたが悪いんだぞ」などと思ったり、話し手を直接非難するためにあるような概念ではないはずです。

そういうことすらわからない、ということで「頭が悪い」ということになります。

本当は、「機会の平等」という意味では、大学などでもある程度入りやすくするべきなのかもしれませんが、何かを教えようとする時、その前提となる学力すら無いのであれば、教えようにもなかなか時間がかかってしまいます。というより理解させることができません。

「理解レベル」による篩い落とし

そういうわけで、「せめてここでやることが理解できるくらいにまでは学力をつけてから来てね」

というのが入試です。

「漢字が読めない」という人に合わせて、テキストを全てひらがなにしますか?

してもいいですが、「そういう人は、まずある程度漢字を勉強し、わからない場合は、自分で辞書をひくということを身につけてから来てください」ということです。

そういうのを無視して、「小学生でもわかるように話す」のが正しい、とするのは、おかしいと思っています。

自分が「小学生でもわかるように話そう」と意識する分にはいいですが、「小学生でもわかるように話すのが正しいのに、なんだお前の語り草は!」と逆ギレするのはおかしいということです。

バカは自分のバカさ加減を棚に上げます。

だからずっとバカなのです。

同情と共感

同情のお芝居 曙光 383

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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