南風の風下で

甲。僕は自分がもはや分からない!昨日はまだ僕の内面はひどい嵐で、それと同時にひどく暖かで、ひどく日当たりがよく― 極端に明るかった。しかし今日ときたら!すべては今や静かで、広く、憂鬱で、暗い。ヴェニスの入江のようである。 曙光 492 前半

苦しみへの勇気の時もそのような感じだったかもしれません。あの時確かに憂鬱で暗い感情を「どかん」と味わったような気がします。

その前の日までは極端に明るかったのに、急にシナシナになったというような感覚でした。

「すぐに戻るだろう」

そう思いながらも、その日の前日までが100だとすると当日は1。

日々悄然とし、それからも限界で30くらいしか本領が発揮できない、というほどに長引きました。

病から回復してからあの時までの僕は、非常に活発で、みなぎるやる気と強靭な体力を誇っていました。まあ根本的にZ会ですから。

ところが、一気にシナシナになりました。それまでに経験した自分を奮いたたせるようなコツを投じても、少しはマシになりますが、やはり寝て覚めればシナシナでした。

自分の意識だけでこれほど世界が変わるのか

目の前の景色はいつもとさほど変わらず、周りの人も普段通りなのに、自分だけが大きく変わってしまったようでした。

急にそれまでフランクに接していた「大人の人」にも、急に畏まるようになり、電車の中で大股開きだったのが、面接のときの面接される側のような姿勢で座るようになり、また、すぐにしゃがみこんでいたのが、背筋をまっすぐにして立つようになり、会う人会う人が自分を見定めているかのような錯覚に陥りました。

自分以外のすべてがいつもとほとんど変わりないはずなのに、まるで世界が一変したようでした。

病が治ってから、すぐに人と距離を近づけることができるようになったのに、急に病中のとき、いやそれ以上に人と接するのが億劫になりました。

「自分の意識だけでこれほど世界が変わるのか」

まだまだアイツの内にいましたが、そんなことを思いました。

「自分の意識だけでこれほど世界が変わるのか」という点については、病中から回復に向かう時に良い意味で一度実感はしていました。

病中の時から復活した際の思考方法の限界

しかしながら今回は、それに留まりませんでした。

以前とは違い、今回のお題をクリアすることができても、何かの拍子でまた同じように見ている世界が真っ暗になるような予感がしました。

その予感のおかげで、病中の時から復活した際の思考方法では、次には効かないということを悟りました。

自分の中では、シナシナになる直前までの考え方が正しいと思っていました。しかしながら、その方法には限界があるという気付きがありました。

「もっと根本的な解決を」ということに意識が向いた瞬間です。

急に見ている世界が真っ暗になる可能性が常にある

そして、「苦しみへの勇気」で触れましたが、ある意味で苦しみの果てに勝ち取った結果にも喜びはなく、「ホッとした」というだけだったという虚しさがありました。

サラリーマンじゃダメなんだ」で少し触れましたが、この時のシナシナが影響し、最初の1週間は「考えないために」と、ここぞとばかりに動きまわり、しかしながらほとんど固形物を摂らず、コーラとサプリメントと黄金糖だけで生活し、体重は1週間で6キロも落ちていました。

その暫くの間は、解決策にある意味で夢中であまり考える暇もなく、その結果も良いものではあったのですが、根本的な問題は依然として残ったままです。

「自分の意識だけでこれほど世界が変わるのか」

ということ、

そして、

「何かの拍子で、また今回と同じように、急に見ている世界が真っ暗になるという可能性が常にある」ということです。

それはいくら出世しようとも、いくらお金を持とうとも、どんな暮らしをしようとも、永久に付きまとってくる根本的な危険性です。

この根本命題をつきつけられたような気がしました。

シナシナになる直前まで、毎日が楽しく「もう迷うことはない」と実感していたにも関わらず、それは根本問題を覆い隠したまま、あいつに踊らさせられていた、ということを思い知らされた瞬間でした。

何千冊も本を読み、もうほとんど生き方も哲学も知り尽くしたと思っていたにも関わらず、「根本的なことが抜けている。まだ知らねばならないことがたくさんある」と思い直しました。

そして、やはり力は半分も出ないまま、また数年間、「最大のがっかり」を迎えるまで、気力の揺れを繰り返しながら彷徨う旅が続くことになります。

南風の風下で 曙光 492

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ