刑務所の中で

私の眼は、どれほど強かろうと弱かろうと、ほんのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかのところで私は活動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、中心点をもち、しかもこの存在に固有であるような、ひとつの同心円がある。同様に、耳がわれわれをひとつの小さな空間の中に閉じ込める、触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感覚がわれわれの一人一人を閉じ込めるこの地平線に従って、われわれは今や世界を測定する。 曙光 117 前半

「刑務所の中で」と言えば、ビジュアルバムの「いきなりダイヤモンド」です。先日改めて観ました。サエグサというところが意味深ですね。

この僅かなところで、小さな空間の中で世界は繰り広げられています。

しかし小さいからといって、感じ方は無限に近いくらい多様であり、どこまでも仔細に感じることができます。仔細に感じることができれば、「1」を分解すれば、いくらでも無限に数字を作り出せるように、見えたり感じたりする世界はどんどん広がります。

限界を定めているのは自分の思考ですから、考え方によっては、物理的な限界すら超えることができます。

実社会でも、どう考えても今のままのやり方では、ある数字を2倍にしたり、時間を半分に短縮したりすることは、不可能に思えたりしますが、何か新しいやり方を思いついたり、自分の知らなかったツールを使い出したりすると、2倍どころか何倍にでもすることができます。

限られた物理空間での行動の限界

特に限られた物理空間での行動は、限界がすぐに見えますが、結果やプロセスを情報として置き換えて再考すると、一気にその限界を超えることができます。

結果を2倍3倍にすることがいいことかどうかはさておいて、それをもたらすことは十分に可能です。その時には、一つだけ諦めなければならないことがあります。

それは今の環境です。今と同じ環境で、同じやり方で都合よく、ということはそんなに起こりえません。

こういうことを言うと、「何かを犠牲にしなければ」と思ってしまいますが、何かを犠牲にする必要はありません。それは時給いくらの仕事で、物理的に、時間的に数量を増やせば一定の係数で正比例するという思考方法の延長で考えるからです。

結果は3倍、時間は半分、ということも十分に可能です。そして、特に自分は何も変えずに、変化が起こることは不思議ではありませんが、結果が変わっているのだから、原因も変化していくので、必ず同じ環境というわけにはいかなくなります。

嫌でも環境は変わっていくため「環境の変化」は当たり前

いくら巨大企業にいても、去年と今年ではそんなに変化がないかもしれませんが、10年スパンで考えると確実にガラッと変わっているはずです。10年たってもそんなに変わらないのは、伝統産業や、寡占・残存者利益で安定的に収益を上げているような企業くらいでしょう。そんな会社ですら、ふとした景気変動で、打撃を受けて、「これではいかん」ということで、コスト削減、販路拡大、生産性向上のためにITを導入したりしています。

それに人はどんどん入れ替わっていきますから、ずっと同じ環境ということはありえません。

つまりは、嫌でも環境は変わっていくのだから、環境の変化は当たり前だということです。

「少しずつ」ではなくて一気に変えてもいいはず

じゃあ、いっそ「少しずつ変える」ではなくて一気に変えてもいいのではないでしょうか。

自分の意識というものはそんなには変わったりしないのですから、自分が消えてなくなるというわけではありません。

いつも他者との関係で自分を確認しています。

しかし、相手に合わせていては、牢獄の中にもう一つ牢獄を作るようなことです。せめて、小さいながらも、自分だけの空間で、自由にレイアウト変更していこうではありませんか。

そんな小さい空間も、目を閉じて壁を感じなければ無限に広がっているのと同じこと。

小さいと感じるのは、眼で小さいと確認してしまうから起こることなのですから。

刑務所の中で 曙光 117

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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