具体的で生き生きとした矛盾

世の中には雰囲気だけで話していたり、人から聞いたことを吟味すること無くさらに人に説き、矛盾したことを話していることに本人が気づいていないという場合がよくあります。

「一見矛盾に見えてしまうが、隙間のニュアンスで読み取って欲しい、そうすれば解釈によっては矛盾しない」というような場合ならばよいのですが、そのようなレベルの話ではありません。

矛盾というと、一種の情報が多すぎる状態であり、ある定義に相反する複数の情報が組み込まれていたりするものを指します。「さっきはああだと言っていたのに、それじゃあこの場合はどうなるんだ?」と言いたくなるような感じが矛盾です。

時に矛盾のように見えたり、言語での説明が難しいというような事柄も確かにあります。しかし、もっとお粗末なものが溢れかえっています。

仏は先祖?供養って何?

例えば、「仏様とはご先祖様のことですから、供養しなければなりません」という文章を見ても、意味がぜんぜんわかりません。先祖はなんとなくわかりますが、仏と供養を明確に定義していかねばなりません。

雰囲気だけで語ってはいけません。その供養というものは一体何なのでしょうか。そしてどうしてそれにはお金がかかるのでしょうか。それを明確に説明してくれた人はいません。

こうした「仏=先祖」とした上で、「供養しなければなりません」がどう矛盾するのかは明白です。仏をどのように定義しているのかは知りませんが、少なくとも無い対象に何をやっても空振りという論理構造があるため辻褄が合わないという構造が生まれるからです。

無い対象に何をやっても空振り

ひとつ確実に言えるのは、対象がすでに無くなっているのならば、何をやっても空振りです。無い対象に何をやっても空を舞うだけで、何の意味もありません。

先祖が阿羅漢にまで悟って現役で生きているのならば、まだ意味はわかりそうなものですが、死んだだけの人に、そして死んで既にいないものに何をしても意味はありません。

それらは意識的な情報にしか過ぎないというところに気づく必要があります。そして、何かしらを唱えること等々、なぜそれが供養となるのかとか、どうしてそれには費用がかかるのかというところも説明する必要がありますが、お金を取る割に説明はごまかされています。

故人への思いや記憶

もし対象があるとするならば、その故人への思いであったり、記憶です。

記憶に引っかかりがあり、それを解消することを供養というのならば、それはそれでいいでしょう。しかし、どうしてそれにお金がかかるのかわかりません。

墓しかり、法要などという謎の名目の儀式然りです。

免罪符という詐欺と同じ

自分の意識の中だけの問題なのに、他人が何かをして、それだけで何かが解消するという構図は、免罪符という詐欺と変わりありません。免罪符代かかるのだから商業的な詐欺的要素を含んでいます。

しかも生きていようが死んでいようが、どちらにしても意識の中の引っ掛かりは情報です。

対象が実在する、生きている時は関係なく、死んでからは解消しなければならないと思うのは、対象が存命の時は「有だ」という錯覚から起こっています。どちらにしても同じことです。存命の時も、モヤモヤは解消しておくべきでしょう。

情報の最終更新日

これも例えて見てみればすぐにわかります。

同級生というものはたくさんいます。しかしその全員と現在も関わりがあるということは稀でしょう。

あまり馴染みのない同級生のことはほとんど忘れているはずですが、一応意識の中では生きていることになっています。

卒業後10年位経って、同窓会で、同級生の誰かが死んだことを知った場合、その時までその人は生きていたことになっていたのが、遡って死んでいたことになります。その時に故人という属性を帯びることになります。

最後に得た印象、情報を自分の意識がどう捉えているか

つまりは、生きている、死んでいるというのは情報をどう捉えているかによって確定しているというようなことです。対象について最後に得た印象、情報を自分の意識がどう捉えているかです。

生きていたと思ったら死んでいた、しかし生きている、死んでいるというのは、何かそれをそう解釈する情報が意識の中に入ってきた時です。

情報の最終更新日からは想像だけの世界になります。意識など、それくらい勝手なものです。

墓場ビジネスと霊感商法

具体的で生き生きとした矛盾 曙光 263

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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