人間嫌悪

甲。認識せよ!そうだ!しかしいつも人間として!何だって?いつも同じ喜劇の前に座るのか、同じ喜劇を演じるのか?この眼以外の眼では、物を見ることが全くできないのか?しかも認識に一層適した器官を備えた存在は何と種類が無数にありうることだろう!人類はそのすべての認識の最後に何を認識しているだろうか?― 人間の器官だって!ことによるとそれは認識の不可能性ということだろう!悲惨と不快だ!

― 乙。これは悪い発作だ― 君は理性から襲われたのだ!しかし明日になれば、君は再び認識の真中にいるだろう。それと同時にまた非理性のただ中に、つまり人間的なものの喜びの中にいるだろう。海へ行こう! ― 曙光 483

人間が好きか嫌いか、ということについて、「人間が嫌いだ」と発言することによって、アーティストを気取ったり、また、人の関心を得ようとするタイプのひとがいますが、もし嫌いだとすれば、何かの期待などがあるからではないでしょうか。

人間嫌悪にしろ、自己嫌悪にしろ、嫌悪の裏には期待があり、どこかしら好きであるという要素、好きになりたいという要素、「こうあって欲しい」「こうあってくれれば好きになれるのに」というものを含んでいます。好きや愛の反対は概ね無関心ですからね。

といっても、やはり毎度のことながら無属性です。解釈によって良いとも悪いとも判断でき、また、期待通りか否かによって、好き嫌いが決まる程度です。

認識しているだけという構造からは逃れることができない

もし、人間というものではなくなり、目が4つあったとしても、視界が広がる程度です。もっと細かく光の差を感じることができてもその範囲だけ、結局認識しているだけという構造からは逃れることができません。

テレビの画面が綺麗になっても、少しばかり臨場感が上がるだけで、それはそれまでと同じく、何かを観て、何か意識の上で反応があり、感情が起こるというくらいのもので、結局それほどの進歩というものはありません。

喜怒哀楽や快・不快

仮に五感以外に感覚器官がもう一種類増えても、次元というものは増えるかもしれませんが、結局その認識により、何かの感情として喜怒哀楽とか快・不快を感じる程度で、それほど大したことではありません。

快ならばもっと快、不快ならば不快をマシにするか快の方向へ、という感情が起こったり、それに向かうための思考が働き出すくらいのもので、ただ単にその指針に従ってやらされているだけだという構造は変わりません。

全知全能になったなら

全知全能になったなら、おそらく何もやらないでしょう。全知全能の力があればやりたいと思っていることすら、その「やりたいこと」が無ければ、まだまだある種の不快だ、というようなことになります。

そうなると、もし全知全能ならば、おそらく何もやることがありません。

何もかもが思い通りになるのならば、おそらく何もやる必要がなくなります。

完全な知性

最高に気持ちいい状態を永遠に続かせるということにしたとしても、完全な知性があるならば

「これ、意味なくない?」

と考えるはずです。

いや、考えるまでもなく、考える前からすぐに判断するはずです。

「意味が無い」

そうすると何もやることが無くなります。

どんどん話が合わなくなる

そんなことを考えると、世間の人とどんどん話が合わなくなります。

そこで、相手にも理解してもらおうと思っても、おそらく前提条件が錯覚の中ならば、一応理屈は理解できても、感情の抵抗によって、この手のことを受け入れる人はほとんどいないでしょう。

しかしこれは、こちらの頭がおかしくなってきているわけではありません。

さらにそこで「相手に理解させよう」と思うと、それが憂いになっていきます。相手に理解してもらう必要はありません。

「ゴルフは楽しいぞ!」

と誘ってくる人を冷ややかな目で見ていくことになっていくでしょう。

「今日の試合は立派だった」

と、中継を見て感想を述べている人たちに同調できなくなります。

喜びという感情も、祝福という行儀なども無くなっていくことでしょう。

そのうち「あけましておめでとうございます」の意味がわからなくなってきます。

「何がめでたいのか?」

そして「めでたい」とは何なのか?

わけがわからなくなってくるはずです。

そして、そういったことで一喜一憂、意味もわからず、せっせと何かの行動をしている人たちを見て、「…」となるはずです。

「それで、それが何なんだ?」

と、必ずなります。

僻みでもなくおかしく思えるはず

「新しい車を買ったんだ!」

と喜びながら言われても、ルサンチマンでも何でも無く、「…」となるはずです。

むしろ、そんなことで感情が動くことがおかしく思えてくるはずです。

「それは良かったですね」

とは思えないのに、なぜこういう茶番をしなければならないのか、とすら思ってくるかもしれません。

そういう人間を見て、激しい嫌悪感がやってくるかもしれません。

しかし、別に嫌悪感を抱く必要はありません。

「この人も『アイツ』に駆り立てられてる憐れな存在なんだなぁ」

と思っておけばいいだけです。

人間嫌悪 曙光 483

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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