人間と物

なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである。 曙光 438

パスカルが嘆いたように、花の絵は見て実物の花は見ないという不可解な現象があります。目の前にある花を感じず、名作とされた花の絵にこそ関心が向くという、人間だけが持つ変な現象です。芥川龍之介氏が春画を買いあさっていた時に菊池寛氏が「そんなことにカネを使うなら本物のほうがいいだろう」というようなことを言ったことは結構有名ですね。

実際の景色よりも写真が評価され、実物よりも絵が評価され、オリジナルよりもアイドルがカバーした方が売れる、ということは、何も今に始まったことではないのでしょう。

食べ物にしても、純粋に味わうことなく「高いものを食べている」という優越感的自尊心の充足が主軸になり、美味いから食うというよりも、高いから食う、品質がいいから使うではなく、ブランド品だから使う、という性質があります。

全く同じ品質の物を違う価格で提供する場合

たとえば、吉野家の牛丼と全く同じ食材で、全く同じ品質のものを個人事業主が作ろうと思えば、おそらく原価としては倍以上かかるではないでしょうか。吉野家規模の大きな会社と個人レベルのお店では、仕入れる量も配送も異なるので仕入れ値が違いますからね。

それに食事場所に日本庭園なんかをつけて、価格を5倍にしたとしても、同じものを食べているのに、吉野家に対する優越感でいっぱいになり、「吉野家ではなく、このような所でこのようなものを食べている」ということに酔いしれているというなんとも不可解な現象が起こります。

雰囲気や優越感という精神的価値

同じものを食べているのに「違う」と錯覚する、それは当の「牛丼」に問題があるはずがありません。確実に受け取り手の問題です。全く同じ品質の物を違う価格で、違う雰囲気で提供しているだけですから当然です。

その事実を裏で知っている供給者は、当の本人からは見えない裏方で笑っているかもしれません。全く同じでなくても、少しだけダシを変えただけても5倍で満足するでしょう。それは優越感のために食べているからです。

本能的ではないところで、文化的とも言えますが、文化が純粋な美しさや美味しさをまるまる表現してくれているかは疑問です。あってもいいですが、それにばかり気を取られて、目の前にある美しさを見逃さないようにだけはしなければなりません。

人間と物 曙光 438

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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