人生に失敗した人々

人生に失敗した人々ということで、人生の失敗について触れていきます。世間でもよく失敗という言葉が使われたりして、「人生に失敗した」とか「失敗続きの人生だ」とか言うようなことを嘆いたりする人がいます。

本来失敗の対義語である成功ですら曖昧な理由で生まれた「願望」の達成くらいの意味合いであるはずですが、世間では、成功とは経済的成功とかお金持ちになるとかそんな雰囲気で語られていたりもします。

自己啓発コンサルの視点から見れば成功とは金持ちになることであり、失敗とは貧困に喘いでしまうことになるのでしょうか。

そしてその「成功」の方法論を唱えることによって、自分は一度も実践したこともないのに、人に教えて儲けようとしています。意味が無いとは言いません。間違いばかりとは言いません。しかしながら、そんなことはブックオフで100円で売っている本にも書いてある、というだけです。

失敗とは一体何なのか?

「人生に失敗した」とか「失敗した人生だ」とか「人生が失敗続きだ」といったことに嘆く場合の失敗とは一体何なのでしょうか?

以前、経営者の集まりのあとの懇親会に参加していたこの系統の自称コンサルタントが、成功した結婚と幸せだが失敗の結婚というテーマで語ってくれました(飲み屋の雑談程度ですが)。

彼が言うには成功した結婚とは親類含めてイザコザがない状態、幸せだが失敗した結婚とは二人だけが幸せな結婚生活だそうです。

残念ですが二人が幸せならそれで十分というか、それだけで構いません。イザコザが起こるなら親類を全部切り捨てることです。幸せを実感するのは結局この心ですからそれで構わないはずです。同語反復となりますが、当事者が幸せなのだから、当然に幸せということになります。

周りの人も含めて幸せでいれるということはベターであり、本来は、当事者が幸せであればそうでなくても構わないという構造になっています。

なので、周りの人も含めて幸せになるということも構いませんが、それを必須条件化することが問題ということになります。

その自己啓発に陶酔した自称コンサルタントは、世間の常識に縛られ、「周りとの関係性などを含める方が無駄に『幸せの条件』を増やすことになる」ということに気付いていません。

いざという時、頼ろうすがろうとしているから嫁よりも自分の親を優先したりするのでしょう。すべて捨て去る出家者のように二人の間に弊害になるものは捨て去ることです。それができないのに一緒になろうとしてはいけません。別に行き先も告げずに遠くに転居すれば良い話です。

「人生に失敗した」「失敗した人生」

さて、「人生に失敗した」とか「失敗した人生を歩んでいる」というような表現がありますが、成功という概念そのものが何かの基準によって成り立っているものであり、成功と失敗は単なる相対的な自己判断にしか過ぎません。

失敗とはあくまで判断であり、何かの基準の上での相対的な判断でしかありません。

人が何かをやると何かの結果が出ます。何かの基準に基づきその結果を判断して「成功だ」とか「失敗だ」とかそうしたことを印象づけているにしか過ぎません。傍から見れば失敗であると判断されることであれ、何かの行為行動の結果は単なるフィードバックにしか過ぎません。そう考えるとエジソンではありませんが、「適さない材料を見つけた」という解釈もできるはずです。

成功だ失敗だというのはあくまで何かの達成目標とか基準があってそれに到達したとかしないとかそうしたことであって、その間のテストやフィードバック自体は単に経験や経験値の獲得であると思えば成功や失敗という概念ではなくなります。

その上、その目標や基準も曖昧に思いついただけのことだったり、長年の経験から「これくらいかなぁ」などと勝手に決めたようなことばかりです。

さらにいうと、映画でもなんでも途中で困難があったりして、その後にどう展開していくかわからないというような属性を持っています。その場面だけを切り取れば、何だか悲しいような虚しいような出来事のシーンであっても、後の結末のための伏線だったということはよくあります。

「人間万事塞翁が馬」という言葉もありますが、直近で起こった現象をそれだけで区切って考えると、それが失敗や不幸に見えたとしても、その先の布石としてストーリーには欠かせない要素だったのだ、ということもあり得るのです。

ということで、世間で言う「人生に失敗した」などというのは、特定の判断基準の上で、特定の区切りをつけて判断をしているにしか過ぎないということです。

しかし、本質的な意味での人生の失敗というものは別にあります。

苦しみながら生きること

さて、人生の失敗とは何でしょうか。

それはただひとつしかありません。苦しみながら生きることです。楽しいと思えることも苦しみです。いくらお金をつぎ込んで、楽しいことをしていてもそれは苦しみです。

「人生に失敗した」というと、願いが叶わなかったとか、周りの人と比べてみすぼらしいとか、恥ずかしいとか、不安感でいっぱいの状況になってしまったというような印象がありますが、本来楽しみや「幸福感」ですら、執著を生みこの心を縛るものであるので苦しみであると考えることができます。

生存本能に支配され、恐怖心にやられ、やっているつもりがやらされているだけ、生きていることは苦しみしかありません。衝動が起こり、渇望し、それを満たしてもマイナスが一瞬ゼロになるだけ。それがわかった時に、失敗が消えていきます。

楽しいと思えることも、その楽しさがその後の現象の判断にあたっての相対基準ともなりますし、手に入れられない苦しみ、手放したくないという苦しみを生み出します。

「苦しみが苦しみであるということに気付いていないこと」それが連続して起こる失敗であり、それに気付いた時からその状況から脱することができる方向性が出てきます。

何事も反省するには反省する動機が必要になり、改善するには改善するための動機が必要です。そして反省する動機や改善しようとする動機の発生には何かの出来事と気づきがあるはずです。

試験に落ちた、仕事がなくなった、そんなことは大したことではありません。大金をはたいて良い空調、広い空間、などは手には入ります。しかしいつまでたっても心の平安は訪れません。

生きることは苦しみそのものですが、その苦しみを無効化することはできます(一切行苦)。無効化するにあたって、お金はかかりませんが、お金をいくらかけても無駄です。お金で買えるものは、環境整備での身体的負荷の軽減と騒ぐ心を誤魔化す刺激くらいのものです。

お金をかけて買った物も、物でありながらすぐに消え行く情報です。物質という形をした情報にしか過ぎません。結局五感で感じた情報はすぐに記憶という情報に変換され、もうそこにはありません。そうなると躍起になって所有することのバカらしさがズドンと沁みてきます。

それが語るまでもなく当たり前になったのならば、海外のリゾート地のプライベートビーチで寝そべっても得られない心地よい安穏がずっと続きます。もちろん無料です。結果的に誰よりも贅沢になってしまいます。

人生に失敗した人々 曙光 213


「人生に失敗した」と思い込んでいるからか、よく「人生をリセットしたい」とか「リセットボタンがあったらなぁ」なんてなことを言う人がいます。しかし、世間的な表現で言えば、もちろんどのような状態であっても人生はやり直せますし、智慧によって紐解くと、人生をリセットするも何も、根本的に諸行無常で「人生」というものは本来続いてはいないのです。

つまりどの時点からでも新しいストーリーを展開していくことができます。

人生をリセットする

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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