アリストテレスと結婚

偉大な天才たちの子供には狂気が、偉大な有徳の人々の子供には愚鈍が突然出て来る。― こうアリストテレスは述べている。彼はそれでもって例外的な人間たちに結婚を勧めるつもりであったのか? 曙光 246

アリストテレスの師匠の師匠「ソクラテス」の奥さん、クサンティッペさんは相当の悪妻だったようですが、ソクラテスは「良い妻を持てば幸せになれる。しかし悪い妻を持っても哲学者になれるよ」と自己啓発に洗脳されたレベルのポジティブシンキングをしていました。アリストテレスの奥さんはピュティアスさんと言うそうです。

妻子について

妻子というものは、すごくいいものかのように説かれたり、また自分を縛るものとして、居酒屋などでは話のタネになります。

その内容のほとんどは悪い印象のことについて語られています。しかし、そんな悪い印象の出来事も、本業を忘れ、仕事や遊びに逃げるから起こってしまいます。これを解決するためにと、論理的に説き伏せるということをしても徒労に終わります。そんなことよりZ会革命です。亜鉛でもエビオスでも買いに行って、早急にZの称号を得なければなりません。

しかし悪い出来事や生活的な縛りだけが、自らを苦しめるわけではありません。子供に狂気や愚鈍が生じても、大したことはありません。それよりも、良い思い出のほうが時に足枷になります。

印象に残っている嫌な出来事は、なかなか頭を離れてはくれませんが、良い思い出もなかなか頭を離れません。それが執着になり、アイツとの最終戦争の時のラスボスと化します。

良い思い出

心の安穏に何か条件をつけてしまうことはすべて手枷足枷です。

何かの条件をクリアしていないと落ち着かないという項目が少なければ少ないほどいいのは、理屈でもすぐに分かります。

良い思い出は、良い思い出としていいのですが、それが原因で何かの制限ができてしまいます。

嫌いな人や嫌な思い出は、捨てることに惜しみが生じることよりも復讐心を消すことに意識が向きます。ただ、復讐の結果から生じるものが結局情報であり、情報を解釈したことによる感情ですから、遠回りで無駄なことには気づきやすい性質を持っています。

良い思い出が原因となって、何かの意図や制限がかかることはよくあります。そして、すべての執着をさらっと捨てるときに一番厄介になるのが、感動するような良い思い出です。価値の錯覚が取れかける時に、それでも「捨てたくない」と意識にしつこく残ります。つまり、愛にあふれるような思い出を持ちだして、アイツが最後の足掻きをしてきます。

その時に執着を捨てたとしても、何も問題がないことにはっきり気付けるまで、ラスボスとして最後の最後までしつこく粘ってきます。しかし、執着を消そうが消すまいが、死んだ時にはどちらにしてもお別れしなければなりません。それまでの間、記憶としてずっと手放さずに保持していたところで何になるのでしょうか。手放したからといって、何か問題があるのでしょうか。

それがわかるような相手がいるならば、共に歩めばいいでしょう。現れなければ、犀の角のように潔く独りで歩むのがいいでしょう。

アリストテレスと結婚 曙光 246

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ