われわれの自由になること

われわれは園芸家のように、自分の衝動を思いのまま処理できる。そして知る人は少ないが、怒りや、同情や、思案や、虚栄心などの芽を、格子垣の美しい果実のように実り多く有益に育てることができる。 曙光 560 序

僕は昔から怒りをエネルギーに変えます。仕事関係でも革新的なことが起こる時は大体怒りの爆発的なエネルギーを昇華した時と相場は決まっています。

それは誰かに対して攻撃をするというようなことではなく、「そうした人たちのせいで不利益を被っている人たちがいる現状」というものに対して怒りのパワーが湧き起こってくる感じです。

おそらくこの傾向は、ペンギンの一件蝉の一件をはじめ、小学校高学年くらいの時からありました。

怒りと言えば怒りですが、慈悲と言えば慈悲っぽい動機です。その奥には自尊心の回復というものが含まれていないところが特殊です。

正義感とは少し違う

ただ、正義感というものとも少し違います。

単に自分の中に怒りがあるからというのが本質であって、「社会をより良くしよう」というようなことは特に考えていません。

正義感ということになれば、どこかしらその奥に主観的な正義があって、それに反するものを許せないという感じですが、僕の中では究極的に結果はどうでもよく、単に怒りのエネルギーを昇華しているにすぎません。

いずれにしても自己中心的であることには変わりありません。しかしながらそれをわかりつつも、オマケ的に社会がより良くなっていけばそれでいいと思っています。

防御のために攻撃を知る

さて、防御の本質を考えたときには、相手の攻撃方法を知ることが大切です。

ということで、「オレオレ詐欺」などでも相手の手口を公開しています。

しかしある意味では、それはこれからそうした事を行おうとしている人たちに攻撃方法を教えてしまうことにもなります。

つまり手口を暴露してしまうことはある意味で諸刃の剣なのです。

確かに、そうした情報が広く知れ渡れば、その攻撃方法は使えなくなるでしょう。

しかし、防御側が知る前に、攻撃予備軍が先に知ってしまった場合は、単に手口を教えてしまったことになります。

また、攻撃側に何かしらのインスピレーションのタネを与えてしまうことにもなるでしょう。

こうしたタイムラグによる本末転倒はよくあると思いますが、それでもなるべく手口は公開していくに越したことはありません。

攻撃方法を分解して構成要素を捉える

ただ、特に具体的な事を一つずつ知らなくても、ある攻撃方法を分解して構成要素はどんなものになっているのかがわかれば、攻撃方法の要素の組み合わせにしかすぎないこともすぐに気付けるはずです。

ある程度メインとなる具体的なものをいくつか知った上で、構成要素に分解し、それらを包括した抽象的なポイントを作り上げてしまうと、どんなオリジナルの手が来てもだいたい見抜けるようになります。

攻撃できないようにする

そんな感じで、怒りの対象となる相手の手口、攻撃方法に対しての防御策ができあがります。

根本的な矛盾点をつけばいいのです。幾つかの要素の中で矛盾が生じている場所が数カ所あります。それを予め手口紹介として公開してしまうことで、「そうした人たちのせいで不利益を被っている人たちがいる現状」に対する怒りを昇華することができます。

体育会系の矛盾について公開することで、体育会系から被害を被っている人たちの役に立つかもしれません。立たないかもしれません。それでも僕個人としては、怒りを楽しみに変えているのでそれで十分です。

そんな感じで、以前「無面接募集の生命保険契約を無効にする」を書きました。

現段階で6000字以上になっていますが、まあそれくらいの字数にとどまる程度の怒りだという感じです(11000字を超えてしまいました)。そんな感じで。またいつか金融商品販売に関する詐欺的営業にでも書こうと思います(→「生命保険等金融商品の不適正募集の背景や手口」)。

われわれの自由になること 曙光 560


問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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