われわれの性格に反して

われわれの語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき― これはしばしば起こることだが―、われわれは下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく。 曙光 407

「語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき、下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく」

それが揺るぎない理であっても、一般的に都合が悪いこと、耳障りなことであれば、語り口調が変になり、自信がなさそうに見え、不信を招いたりすることがあります。

そして頭はどうしても矛盾を嫌います。

だから、完全に消化しきれるまでは、思考上を飛び越えたところにあるところを誰かに説明し説得しようとした時に自信がなくなってしまうのです。

ところが、変な新興宗教の教祖のような人でも、自分自身が行ききっていて自信をみなぎらせ「定説です」とか「最高ですか!」とか「まだ間に合うんです!」と言っていた場合、その迫力・自信のほどに感化される人たちが出てきます。

人が人に影響される場合を考えた時、それは論理的な正しさよりもこうした非言語的な要素が大半を占めており、そして人の集合体である社会というような場所では、正しいことよりも感化された人たちの多数決で正しいかのようなことが採用されていくのです。

多少の矛盾自体に混乱はするものの、「それではどうすればいいのか?」というところがはっきりしないので、ひとまず自信のある人の側についていってしまうのです。

感化される人たち

感化され、何かのドグマに執着することで、一種の安堵を得ることがあります。

そこにはある意味でその「ひとつ」以外に迷いが無くなるからです。

生きていれば選択の連続で、その選択自体にストレスを感じます。物事を決めていくというところにストレスがかかるのです。

「こちらを選んで正解だったのだろうか?」

というようなものが奥底にあるからです。

「もしも」はあり得ない

ところが、両立ということは普通ありえません。

AかBかというときには、AかBか、両方か、両方とも不採用かというパターンしかありません。

そしてその4パターンを同時進行させることはできないのです。

ということで、どうあったとしても、「もしも」ということはありません。今あるものがあるだけです。

そのタイミングで「それ」ということは、ひとつしか成り立ち得ないのです。

で、何かひとつのドグマに集中するとある程度のことについて選択の指針が生まれます。

でもお察しの通り、そのドグマ自体が正しかったのかどうかというところの疑問は残ります。

だから、本質的にはバラ売りをパッケージプランで買うのと同じくらいのものなのです。

感化のキーポイントは気迫と目

そういうわけで、人は人に感化され、わけがわからぬまま何かと同化しようとします。

そうした時に感化する側のポイントとしては気迫と目です。

いわば情報のエネルギーと情報と伝達といったとこがそうした気迫や目を発端としてます。

逆に言えば、それを知っていれば防御することができます。

どんな人でも落とせますよ

たまーに水商売の人が、「どんな人でも落とせますよ」というようなことを語ることがあります。

もちろんそんなお店に自らすすんで行こうというような人なのであれば、「どんな人でも落とせますよ」ということなのかもしれません。

まあ人ならということで「佛は無理だ」ということも知っているのかも知れません。

まあ実際に相手が阿羅漢とまでいかなくても、相応の修行者なら無理でしょう。それどころか、同じような策士や心理学者、催眠術師なんかにはおそらく通用しません。

といっても、そういう人たちも、無理な相手には無理だということを知った上で、自分の自信を無くさないためにそんなことを言っているのかもしれません。

なぜなら自信がないと、使えないからです。

「自分はどんな人でも落とせる」という意識状態を保っておかないと効かないのです。

ただし、上には上がいることもどこかで勘付いているでしょう。

目と目が合った時の情報伝達

目と目が合った時、といっても詳しくは割愛しますが、情報の伝達が起こります。

一方的に送ることも可能ですが、基本的には相互関係にあります。その際には基本的に同調します。さらに情報の質とパワーの差によって、どちらかがどちらかに飲まれるということも起こり得るのです。

という流れを知識的か経験的に知っていて、意識的か無意識的かはわかりませんが、相手に対して行っているという感じです。

ということは、相手より強いパワーを持っていたり、相手のパワーを流してしまうということができれば通じません。

普通は五感にプラスして意識が介入していますが、意識を持ち込まない状態になっているのであれば、介入しようがないのです。

また、もっと簡単なところで言えば、目を合わさなければいいのです。普通は同じ空間にいると少なからず同調しますが、目の付近を見ているだけで瞳を見ないという状態にしておくだけで、影響力を激減させることができます。

そして、もしやってきたとしても、その無意識を捉えてしまうことで、それに働きかけることができるようになります。

気付くだけでも防御になります。

ちょっと高度な対応法

あと、少し高度になると、発動した「ペルソナシリーズのペルソナ」のような式神のようなものに向けさせるという方法もあります。

と言っても伝えにくいので、なんなら「元気ですか!(忘却)」で触れたような方法でアントニオ猪木氏を召喚しても構いません。ひとまずは、自分の目の前にアントニオ猪木氏がいて、相手はアントニオ猪木氏に向かって情報を送っているのだという感じで大丈夫です。

霧となってもいいですし、矛先を変えさせてもいいわけです。

その他、リフレクをかけて跳ね返すこともできますが、慈悲波動拳(笑)で邪念を消滅させることもできます。

それが威圧的な攻撃などであっても大丈夫です。

あまりよくわからない話だと思いますが、とりあえずはガミガミ言われても「この人は、自分の目の前にいるアントニオ猪木氏に言っている」と思っておけばいいでしょう。

「どんな人でも落とせますよ。もちろんあなたも」ということであれば、「この人は、自分の目の前にいるアントニオ猪木氏を口説いている」と思っておけばいいのです。

「おいおいアントニオ猪木氏、ちょっと惚れ込んできてるぞ」ということになっても、別にあなたが心を奪われているわけではありません。

意識の一部は奪われていたとしても、心は奪われていないでしょ?

われわれの性格に反して 曙光 407

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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