われわれが芸術家になる点

だれでも或る人を自分の偶像にすると、その人を理想に高めることによって自分自身に対する弁明を行おうとする。彼は疚しくない良心を持とうとするため、それによって芸術家になる。彼が苦しむとしても、無知に苦しむのではなく、無知であるかのような自己欺瞞に苦しむのである。曙光 279 前半

アイドルに陶酔している人をよく観察してください。

さて、「われわれが芸術家になる点」ということで、芸術と「プロ」について触れていきましょう。

内部表現の外部表出

内側に表現したいものが無い場合、どんな道具を持っても、どんな技術を使っても、それを外部に表出したところで低レベルなものしか出てきません。

どうしてポップスのほうが芸術の技術ばかり磨いていた人より、人を感化させるのか、その点をずっと考えていたことがあります。

その一つの理由として、技術ばかり磨いている人は「箱入り」です。しかしポップスを書く人たちはデビュー前にサラリーマンなどをしていた人が多いでしょう。

つまり、日常のシーンやルーティンなどから感じるものが内側に蓄積されていっているからです。「箱入り」の場合は、生活に対しての日常感覚がこの場合と違ってきます。

ですからどんな状況であっても、感性を磨くに分が悪いということはありません。

むしろ仮に社会で弱者として扱われるような立場にいても、その立場でしか感じることの出来ない感情や感覚があります。それを凝視すること無く「打ち上げ」ばかりしていてはいけません。

技量は内部表現を外部に表出するときの手法の係数です。

磨いて、確かにレベルは上がりますが最大で1.0です。伝えたいことがなにもないのに、ひとまずブログを開設しているようなものです。

弘法筆を選ばず

別に音楽や絵や書に限ったことではないのですが、技量の無さを道具のせいにしてはいけません。たまにいますね、そんな人が。

しかしながら、プロというのは、その道具や環境がどのようなものでも、その限界値にまでポテンシャルを引き出すことが出来ます。

プロとアマチュアの差として「お金を貰えるか貰えないか」という尺度もいいですが、プロとはそういうことだと思っています。

「お金を貰えるか貰えないか」ということも、「人がお金を払おうと思うくらい」というレベルという意味で一つの尺度にはなります。

道具の持つ限界値

確かにある道具には、その道具が持つ限界というものがあります。

5万円の廉価版ギターと、質のいいヴィンテージギターとでは「鳴り」が違います。ピックアップの質だけでなく、ボディの木材の質が違ったりするので、生音の響き方から異なってきます。

しかしその前にしっかり押さえてはっきり音を出すことや、スラスラ運指が出来なければ元も子もありません。その点はエフェクターではごまかせません。

また、例えば、ある乗り物とあるコースという組み合わせがあったとして、路面状態などの変動はあるにせよ、「最速タイム」というのはだいたい決まっています。

全く同じ状態であれば、必ず最速タイムというのは一つしかありません。

全く同じ状態というのはあり得ないことですが、「今のこの状況で最速」という意味であれば、常に最速タイムというものはひとつになります。状況が同じではないので、比較しようがありませんが、「最速値」は常にひとつです。

それが50ccのバイクであれ、必ずその50ccでの最速タイムというものがあります。

状況、条件自体はバラバラでも、その最速値近くに常に近づける技量がプロであり、そのバイクが持つ「限界値を引き出すことができる」というのがプロであって、排気量の大きさで直線だけ速いというのは考えが素人です。

市街地ならば、普段は厄介ものである雨の日の交差点のマンホールであっても、時に旋回能力を高める武器にすらなります。

まずは一つの道具をその限界ポテンシャルまで引き出せることができてから、環境に合わせてチューンしたり、ハイグレードのものに手を出せばいいのです。

別に初めからハイグレードのものを使ってもいいのですが、それでないと嫌だ、それでないとできない、という人がいます。

残念ですが、低スペックの道具の性能を引き出すことも出来ないのに、どんな道具を使っても、その能力の全部を引き出すことはできません。

音楽やグラフィックならパソコンがある程度のことをやってくれますが、そればっかりの人がよくいたりします。

最初からアテーサE-TSやアクティブヨーコントロールに慣れてしまうと、自分が上手いと勘違いしてしまいますから、AWDに乗る前にコンパクトのFFなどで前輪が駆動するとはどういうことか、ということを体感してからのほうがいいかもしれません。それでもなるべくATTSのような技術には頼らないようにしたいですね。

別誂えで取り付けた

芸大教授の遊び

以前、中古で200円だという十年以上前の80万画素程度のソニーのデジカメで写真を撮っている人がいました。しかしながら帽子はニコン、どういうことかと思ったら、某芸大教授でした。

「次の個展で何人がこの200円デシカメの作品だと気づくか実験する」と言っていました。

われわれが芸術家になる点 曙光 279

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ