めったにない節制

他人を判定しようとせず、他人について考えることを拒むのは、しばしば人間性の少なからぬしるしである。 曙光 528

めったにない節制ということで、浪費家についてでも書いていきます。

節制は、浪費の対極にあるものであり、必要な消費に関して惜しむことはありませんが、必要ではない浪費は一切しないという感じです。必要なものすら出し惜しみするというのは吝嗇、つまり「ケチ」であり、節制とはまた異なった概念になります。

節制家の対極にあるもちろん浪費家であり「お金を貸す人借りる人」で触れているような、すぐにお金を借りてしまう人です。お金を借りるまではいかなくとも、「給料日が待ち遠しい人」もだいたい浪費家です。

「給料日前だから」という縛り

僕の感覚からすると、小学生の時から「給料日前だから」という理由で行動に制限がかかってしまう人の神経がわかりません。

「給料日前だから節制しているんだ」というような人です。

普通に考えると、例えば一ヶ月でもいいので少し節制して、貯蓄残高に余裕をもたせた場合、「給料日前」という縛りはすぐに無くなると思うのです。

給料日が25日でも少しばかりの貯金があれば、23日に遊びに行くとしても余裕です。

そこで使ったから節制しようと思った場合、2日間の「自分対自分の短期融資」だと思えば、何の問題もないはずです。

ところが、なぜか「今日は給料日前だからあまりお客さんが来ないんだ」という声を昔からよく聞きます。

「みんなどんな資金繰りなんだろう?」

そんなことを十代から考えていました。

給料日前にお金がない人は概ね浪費家

そういうわけで、給料日前にお金がない人は浪費家ということになります。お金を持っているか持っていないかなど所詮お金が入ってくる量とお金が出ていく量のバランスです。

お金が入ってくる量の方が多ければお金はたまりますし、お金が出ていく方が多ければ、自然とマイナスとなり、借金をしてそのマイナスを補うようになってしまいます。

給料の多さは職業によって千差万別ですが、一応は最低賃金というものもあるので、特別な事情がない限りそれほど生活に困るほどの収入しか無いということは普通ありえません。

もちろん本人や家族が病気がちであまり働けなかったり、家族が事業に失敗して借金があったりという感じで一律に論じることはできませんが、そうした事情がないのに給料日前にお金がないということになるのであれば、給料をそのまま何かに消費していることになります。

あまりお金が無いにもかかわらず、「これだけは絶対に譲れない」という変なこだわりを持っていたり、「甘い客」としてわけのわからないプランや商品の定期購入を契約させられていたりという感じだったりします。そして自分が浪費家であるということにすら気づいていません。

自尊心回復の手段としての浪費

さて、たまに人に奢って「よ、男前!」などと言われることをライフワークにしている人がいます。

別にそれはそれでいいのですが、その奢るという行動の動機自体が「よ、男前!」の獲得であり、それを自尊心回復の手段としているところに問題があります。

浪費家の大半というかおそらくすべての浪費家は、お金を使うことで自尊心を回復しようとしています。

「褒め」を欲したり、はたまた自分には力があることを確認したいというものだったりと形は様々ですが、荒んだ心を回復させるためにお金を使います。

節制とは必要以上にお金を使わないこと

節制とは必要以上にお金を使わないことです。まあお金に限定することもなく、水を出しっぱなしにしたり、照明や空調等々電気をつけっぱなしで外出したりということが無いという感じになります。

そしてさらに意識が安定しているので、「消費によって自分の心を満たそう」という気持ちすらありません。

逆に浪費家は、荒んだ心を何とかしようと、物を大量に浪費したり散財したりしつつ、自分のことで精一杯なため無駄な消費である「出しっぱなし、つけっぱなし」に無頓着だったりします。

何度も触れていますが、本来は自尊心自体が虚像であり、虚像故に自尊心の回復というものは不要です(というより成り立っていません)。

節制しようとも浪費しようとも思わない

まあ個人的には「無駄なことはしない」という意味では節制しているのですが、いわゆるケチに分類されるような出し惜しみも、逆に浪費というものも、共にそうした動機となる感情がないので、どちらにも意識が向きません。

節制に関して言えば、特に意識をしているわけではなく、心の安定があればそのまま自然と節制につながるのではないかと思っています。

消費者金融というコトバ

さて、最近では「コンシューマーファイナンス」と言う言葉で覆い隠していますが、これは元々サラ金と呼ばれたり、正式にも消費者金融と呼ばれていました。こうした消費者金融が浪費家の浪費を加速させていったことは否めません。

消費大国というより浪費大国のアメリカなどではクレジットカード文化がそれを加速させていますが、日本においては消費者金融の大ブームが節制の対極にある浪費を加速させたと言っても過言ではないでしょう。

では、なぜ「消費者」の「金融」なのでしょうか?

企業でも同じようにお金を借りるのに、何が大きく異なるのでしょうか?

お金を「生み出すもの」と「使うだけのもの」

それはすごく簡単です。

通常、「金融」は一部例外を除き、担保の設定の上などで、返済原資が獲得できるであろうものに対してしか行われません。

工場が新しい機械を買う、そうすれば、新しい機械で生産することができる、もしくは生産効率が高まる、そして結果的に利益が出る、という感じで、「お金を生み出すこと」や「お金を生み出す可能性」に対して融資というものは行われます。

一方消費者金融は、借りた人が消費するだけ、つまりは「遊んで無くなるお金」です。貸したお金を使って、何かの生産を行うわけではなく、ただ消費するだけで、今現在消費するためのお金がない人に対して、「遊ぶカネを貸す」という事になっています。

だから単純に「浪費家のためのサービス」という感じです。

これで、「給料日だから今日は無理だ」となっていた浪費家たちが、「とりあえず借りて遊ぶ!」ということが可能になりました。

洗脳の結果としての消費行動

めったにない節制 曙光 528

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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