さよなら2017

さあもうすぐ2017年が終わります。

一応2017年を少し振り返っておきましょう。

急に仕事のやる気が無くなったり、養子が死んだりということもありましたが、急に大掛かりな仕事が舞い込んできたり、急に沖縄に行っていたりと、急な展開がよくありました。

最も大きな変化は養子のうさぎが亡くなったことですが、それは彼の死と同時に彼と出会う前の僕の意識との再会があったことも含まれています。

思えば我が家にうさぎがやってくる少し前の僕は、毎日が楽しかったように思います。もちろんうさぎのせいではありませんが、ちょうどその頃くらいに大きな変化があったというのが本当のところです。

一体どんな感じだったのかなぁと、思い返してみると、圧倒的に違うのは気力と体力というところかもしれません。もちろん今のほうが気力と知力は優れていますが、体力面では少し低下したような気がします。気力に関しても、以前ほどの爆発的パワーはなく、穏やかです。

何よりその原因としては、「見えないものが見えてきた」ということになりましょう。

意識は空白を嫌い、空白があるとそれを拒絶するか、わかるまでやる気にさせるかどちらかに方向づけます。

で、わかってしまうとやる気は切れるのです。

そんな感じで根本的な気力はありますが、やる気が無くなるということがよくありました。なぜならすぐに見えてしまうからです。

養子が我が家にやってくる前は、何だかんだで見えないことがたくさんありました。だからこそ爆発的なやる気と行動力があったような感じだったのでしょう。

言語と体感

この数年間しばらく忘れていたことを思い出しました。

それは通常思考は言語で行いますが、体感領域の成功法則のようなものを言語で論理的に記述し、意識を納得させようと思えば思うほど意図とは逆行するということをです。

これは自分がドツボにはまっていたというわけではなく、人に説明する時に人を勘違いさせてしまうということを思い出したという感じです。

先日曙光完走記念の際に見渡しましたが、本ブログ上では大丈夫でした。

しかし、現実で会う人達、とりわけ弟子(仮)たちに変に伝わっていたのではないかということを先日思いました。

脱洗脳

僕は、本当に稀ですが、脱洗脳のようなことを行うことがあります。もちろんそれを生業にしているわけではありませんし、世間の客観的な評価からすれば素人ですが、もちろん素人ではありません。

脱洗脳の療法家たちの葛藤として、脱洗脳のプロセス自体が、洗脳による上書きということなり、結局自分がやっていることもカルトと変わりないのではないか、というものがあります。

結局自分が意図する方向へと上書きするのですから、それはカルト入信前にカルト教団が信者に行ったことと同じことなのではないか、ということです。そして同時に、そうした倫理観自体がカルトの独善と同じになるのではないか、ということです。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

しかしながら、僕の場合はそんなことは思いません。

なぜなら宗教や主義、倫理観の枠を超えて行うからです。脱洗脳が叶ったところで、僕には何のメリットもないということが、そのわかりやすい証拠のようなものになるでしょう。

ということで、つい先日弟子(仮)が少し怪しい方向に向かっていたので修正しておきました。怪しいといっても、特に破壊的カルトとかそういうのではなくて、よくあるような体育会系ベンチャーの「過労死寸前スペシャル」のような方向に向かう恐れがあったので是正しておいたという感じです。

やる気があるのはいいですが、結局それが盲点になり、本質を見落としてしまいそうだったからです。

一応相手に気づかれずに行うという感じでやりました。顔つきがはっきり変わったのでおそらく成功しているでしょう。

権利を主張する団体

そう言えば少し前、大峯山(大峰山)に登りましたが、あの場所は女人禁制だということで、昔権利団体のような人たちとバトルがあったようです。

一歩外から見ると、そんな所にこだわってどうするのかという感じのことを思いますが、おそらくそうしたことを声高々に叫ぶ人たちは暇であり、かつ、現状が不服なのでしょう。

世の中では男性の方も権利を主張してもいいはずなのに、特にそうした活動は行われることはありません。嫌煙家は声高々に禁煙を叫びますが、度が過ぎた現代では、本当に権利を虐げられているのは愛煙家の方であるというのが本当のところです。

結局のところ、そうした権利主張のようなものは、自己都合であり、弱き者で暇な人ほど声高々に叫ぶのが常です。

大峰山の一件も、その人達の中でその時のブームであっただけで、そんな主張を真に受けているとロクなことはありません。「あるべき倫理」を盾にとった鬱憤晴らし程度だと思っておきましょう。

そうした中で最近では、LGBTの人たちが「認めて欲しい」というようなことを言っています。

僕とすれば何をどうして欲しいのかわかりません。

別に二人で仲良くしておけばそれでいいのではないのでしょうか?

それ以上に何を求めているのでしょうか。周りの人たちに何を求めているのかがわかりませんし、根本的に「周りの人」の状態を幸せの条件にすること自体が煩いの原因なのです。

はっきり言えば、LGBTは性癖です。別に一緒に暮らしたりする程度であれば男性寮や女性寮、ルームシェアでも同じですし、遊んだりすることは普通の友人との遊びと変わりありません。

ということで、己の性癖を認めて欲しいということになります。

世の中では、性癖として露出することが性癖である人もいます。

しかしそれは公然わいせつ罪として罪になります。一応その根拠は、己の快楽のために、他人に不快な思いをさせるということだからです。

こうした中で、LGBTのうち、特にLGBについては、「同性間の性活動を認めろ」ということを主張しているわけです。

別にそんなことは人に主張することでも何でも無く、黙って自分たちで謳歌しておいてくれという感じです。

表現が悪いですが、例えば「○玉をタコ糸で縛られることが好きなんですが、そうした好みを認めてください」と言われたらどうしますか?

「知らんがな」

「わざわざ言わんでも、好きにしといたらええがな」

という感じのはずです。

所詮性癖の域ですから、好きにしておけばいいのです。

関係のない他人に何を求めるつもりでしょうか。

「認めて欲しい」

というものほど寒いものはありません。

人と人とが憎み合わずに相思相愛であることはいいですが、その域を超えて他人に何かを求めるのは苦しみを増やすだけです。

「それであること」は、何の問題もないですが、「それであることを認めて欲しい」という要求は変だということです。

好事家の硬骨漢

意識の矛先

さて、2017年の締めくくりとして、意識の矛先について書いて終わりにします。

人の意識は直近の情報によくよく影響されます。

特に共感性の強い女性などの場合は、同調による影響が強く、良くも悪くもあまり信念が無いので、直近の情報によって意識の矛先はコロコロ変わります。信念がない故に、環境の順応力も高いということにもなります。

健康を扱った番組が放送され、特定の食べ物が紹介されると次の日スーパーでは品切れが続出します。しかしその後にも追加で違う情報が入ってくるので、一週間後にはそんなブームは去っています。

でもそうした意識のふらつきがあるからこそ、異なる環境でもすぐに友だちができたりします。

信念が強すぎる人は、車選びの際に特定のメーカー以外の車でないと嫌だと思ったりする一方、信念がなくこだわりがない分、そうした時には煩いがない、そんな感じです。

信念の影響

といっても、深いところでの信念はガッチリと形成されていて、それが原因で苦しんでいる人も多くいます。

顕著なのは仕事観や結婚観などでしょう。奴隷のように真面目に働いたりすることを筆頭に、意識の奥底の信念が影響して柔軟な選択ができないということがよくあります。

思考上ではわかっていても、概ねブレーキがかかるはずです。それぞれの具体性の中で、それぞれが正しいことを理解できても、よほどのことがない限り自分の信念の枠組みの外から出ることはありません。

その信念が壊れることの難しさは、例えば、明らかに黄色人種顔をした日本人の人がいて、その人の前に黒人の男女を連れてきて「あなたの本当の両親はこの二人です」ということを疑いなく信じさせるくらい難しいのです。

おそらくその日本人は「何を言ってるんだ?頭おかしいんじゃないのか?」と思うはずです。

それと同じくらいに意識の奥底の信念は強力です。

だから僕が書いていることを受け入れられないという人も多くいるでしょう。しかし受け入れてもらわなくても僕には何の問題もありません。分かる人がわかればいいですし、分からない人を何とか説得しようとも思いません。

といっても、既に知っているはずですし、それに今気づくか、後になって気づくのかはわかりません。

見えないものは自ずと見えてくるはずです。

それではまた来年!


新年2017(さよなら2016は書き忘れました)

さよなら2018

Category:miscellaneous notes 雑記

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