さけがたい

諸君に好意を寄せないものは、諸君が何を体験しようと、その体験の中から諸君を腐す機会を見つける!諸君が心情と認識の最も深い革命を経験し、ようやく快方に向かう病人のように切ない微笑を湛えて、自由と明るい静寂の中へ行き着いたとしても― 曙光 480 前半

どんな人がどんなことを言おうと、おそらくどう転んでも非難というものはやって来ます。それは、「自分の意見」を言いたがる人たちが必ずどの時代でもいるからです。そしてそれはアイツが足掻いてくるからです。

今となっては、人の意見を特に聞くことはありません。社会の中で、異業種の方に聞くことなどはありますが、特に普段書いているような内容については、一切人の意見は聞きません。

感情で論題がズレたまま「自分の意見」を言いたがる人たち

というより、たいてい感情で論題がズレていたり、勝ち負けのようなことをやろうとしてくる人しかいませんから、話しても意味はありません。

目指しているところは何かしらの感情的問題の解決であって、より良い解を導くためのものではないようなものになっているのであれば、議論も意味はなく、やってくる意見にも価値はありません。

意見を頂戴したくなるときというのは、さらに高い論点や解を求めている時であって、いつ何時でも求めているわけではありません。

もし、人の意見が聞きたくなったら一方的に聞くに近い読書に勤しむかもしれませんが、特に普段書いているようなの内容については本すら読みません。

また、そもそも人に認めてもらう必要がないので、説得も特にしません。

自尊心を満たそうとしたり自分を守ろうとしたりする意図から起こる「意見」

まあ人が意見を言ってくるときは、「私のほうが上だ」とかいうことを主張したり、自分の利益の方に持って行きたかったり、つまりは自尊心を満たそうとしたり、自分を守ろうとするようなことなので、純粋に「理をもっと深くまで突き詰めよう」とか、そういった動機自体があまり見受けられません。

いままでそういった人に数人出会うことはできました。その内の二人は「10年前の日記 理解者との共同作業」のあの二人、そしてその他にも、今までの10年間でインターネット上で合計10人位はいました。実際の社会でも数人です。

それでも、その当時はそのレベルに合わせたような人たちばかりでした。今では彼らがどのようになっているかもわかりません。

非難は外からの評価

「非難をもろともせず突き進むんだ!」

というのは一見カッコよく見えるかもしれませんが、そんなことはテロリスト集団でも胡散臭い新興宗教でもやっていることです。

人が何かをやったり言ったりするとたいていは誰かが望んでもいない「意見」を言ってきたり、感情を隠しながら論理で非難をしてくる場合があります。

しかしあまりそういったことは気にしないでいいでしょう。非難というものは結局外からの評価ですから。

外からの評価を何かの基準にしている限り、永久に振り回され続けます。

相手に伝えるためにその人に合わせて表現したとしても、その人に合わせて内容そのものを捻じ曲げてはいけません。

相手の持つフレーム合わせて方便を語るのはいいですが、本質的な意味や内容まで歪める必要はないのです。

われわれの評価

間違っているものでもベストアンサー

民主主義というものは恐ろしいものです。世の中では会議や多数決など民主主義を称賛する傾向にありますが、意見が出れば出るほど、ほとんど確実に「洗練」とは逆行していきます。

最悪な構図は知恵袋系でしょう。

そもそも質問している人はわけがわかっていない人です。

その人に対して、感情的に響くように優しく長文で回答していれば、それが間違っているものでもベストアンサー、正しい回答であっても、短文で厳しい書き方をしていてはベストアンサーに選ばれない、という最悪のやりかたです。

そもそもわけがわかっていない素人が、回答に対して感情で票を投じることを許容しているという最悪の構造です。

知恵袋難民(祝四周年)

さけがたい 曙光 480

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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