かつて讃辞を述べた者

10年位前、ライブドアという会社が話題になったことがあります。その時の様はよく覚えています。政治家や芸能人までもが堀江氏を持ち上げ、潰された途端に、意見をくるっと180度変えた様子をです。

彼を支持すると具合が悪いということになるのでしょうか、急に態度を変え始めました。

では、彼のどんなところをまず支持していたのでしょうか。かつて讃辞を述べた者たちは、何を支持し、その後何をもって支持しなくなったのかというようなところに疑問を持ったりしました。

支持するような意見から急に真逆の意見に

面白いことに会社の休憩室での話題ですら、支持するような意見から急に真逆の意見に変わったのですから、その急変ぶりに逆に驚いた、という記憶があります。第三者の意見によって、自分の意見がコロコロ変わるのがB層の特徴です。つまり、雰囲気だけで物事を判断しているということになります。

ある一つの行動が良い事か悪い事かは、相対的なものなので、判断はどちらにでも転びます。本質的には無属性です。つまり、立場・目線からの話であって、どの立場にいるのか、そしてそれから判断するための情報やその情報の信憑性など、たくさんの要素があるはずです。

まずどんな立場に立つのかということを定めてから、正確性の高い情報と判断の基準などを明確にしていかねば、本来は判断というものはできません。

正確なジャッジの効用

他人ごとで自分には関係の無いような話の判断でも、それを正確に判断しようと思えば、人生を棒に振るほどの時間と労力が必要になります。そんなことは、そういう仕事の人か、そうでないなら学校でやっておけばいいことで、休憩室でしてもしかたありません。そんな所で正確なジャッジをしたところで、何かがよくなるということはあまり無いのですから。

ただの雑談ネタで、「第三者の意見でコロコロ変わっていく」ということに全然気づいていない会社の人達を見て「その人達の意識というものはどこにあるのだろう」というようなことを考えるようになりました。

「もしかしたら一から十まで、他人の意識の中で生きているのではないか?」というような一種の恐怖を覚えたような記憶があります。

意識の元が人からの情報ばかりであるなら「その他人を選ぼう」

このことに関しては以前「見せかけの利己主義」というところで触れたような気がします。奇妙な幻影の世界です。

この時に自分がとった方法は、仮に他人の意識の中の幻影の世界なら、どうせ意識は他人からの情報ばかりなら、「その他人を選ぼう」ということです。どうせ影響を受けてしまうのなら、なんとなく立派そうな、ある程度思考能力の高そうな人の影響を受けようとしたような気がします。そこで活字中毒に拍車がかかりました。

自分の好みはさておいて、ある本を読んだのならその参考文献を、そして時に好みに左右されないために、図書館の本棚の端から順に読んでいくということもしました。

そんなことをしていると知らぬ間にテレビは全然見なくなりました(テレビを見ない生活)。くだらないと理由もなく、どうくだらないのか説明もできないのに遮断するというわけではなく、知っても仕方ない情報ばかりということに気づき、時間と意識のスペースの無駄に思えたからです。

その時間と意識のスペースを他のものに使おうと思ったからで、それが結果的に良かったような気がします。今でもテレビは全くに近いほど見ません。飲食店などでついていれば、たまに意識が向く程度です。ニュースを見ても、その情報は自分とは何の関係もないような情報です。

かつて謝辞を述べた者 曙光 259

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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