お世辞屋の風土

卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158

卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。

ウソでもいいから褒め合えというものでしたが、試しにやってみると、相手の顔は綻んでいるものの、こちらはだんだん疲弊するというものでした。

ほめられても困る

何年か前に、「ほめられても困る」という旨を保険屋の知り合いに言うと、「それは占い的に○○だからだ」という回答が寄せられました。

こういう思考回路を持った人はもはや洗脳されていると言っても過言ではないでしょう。たしかにそういう傾向はあるのかもしれませんが、それを知って「それがどうした」です。

特に女子になにかお世辞的なことを言われても何の反応も示しません。それで反応してしまうのは、まだまだ「モテたい」と錯覚の中にいる証拠ですから気をつけたほうがいいでしょう。女子どころか、誰に何を言われても、特に嬉しいとは思いません。

純粋な褒めでも困る

褒められることに対して、今では困りもしませんが、かつてはそうではありませんでした。

お世辞屋の褒めも嫌ですが、純粋な褒めでも困りました。

やはり言ってくれたからには反応を示さなければならないという圧力がかかるからです。

プレゼントを贈られたからには同レベルのものを返さねばならないという圧力です。せめて嬉しがっているような顔を見せないと申し訳ないような気持ちになりました。

けなされること

以前どこかで触れましたが、褒められるとは逆に、けなされることに対しても、あまり一般的ではないタイプの怒りが生じる癖がありました。

けなして、反発心からやる気が起こると思っている体育会系がいますが、それをアホの一つ覚えのように万人にやるのは、アタマが悪いですから論外です。僕には通用しないということが見抜けないような人に、僕が釣られることは昔からありません。

さて、怒りが起こると爆発的に、また冷徹になるので、やけにプライドが高いと勘違いされましたが、自尊心が傷つくというよりも、醜い姿を見せられるのが嫌だから、という種類の怒りです。

自分が攻撃された、というより目の前に汚物があるような感じです。早く排除したくなり、汚物を見るような目で見てしまう癖がありました。感覚としては汚物に集っていたハエを払うように、というような感じです。

そのために、人と仲直りするというケースはほとんどありません。一度でも、汚い姿を見せられたら、もう前と同じような関わりは持てません。

万引きGメン

そういえば先日、外食をしている時についていたテレビで万引きGメンをやっていました。小売店舗などの私服警備員というやつですね。一般客に混じって万引き犯を監視するというものです。

この万引きGメン特集に、地元の「卸売のタカギ」が出ていたので、思わず見入ってしまいました。

その時に捕まった万引き犯は店長と顔なじみの常連でした。顔なじみのお客さんで世間話もしたりしていたのに、その人が万引き常習犯だった、その時のがっかり感のようなものです。

もうその人との仲は修復できません。

それまでの思い出もすべて台無しどころか嫌な思い出にすらなってしまいます。それと同じように、一度でもそういうことをしてきた人はすべて関わりをお断りさせていただいています。

話が逆行しましたが、お世辞に戻りましょう。

お世辞

お世辞ごときで喜んでしまうのは、頭のいい悪いの問題ではありません。頭の悪そうな人でも「またそうやってオレを騙そうとしてるな!」とキレる時がありますから、一律には論じ得ないでしょう。

自尊心を主軸に考えれば、社会の動き、人の言動などはだいたい読めることは確かです。自尊心主軸で経済社会での購買行動が決定しているというのは、自尊心が満たされきっている人や、自尊心が不要の境地にまで立った人は数が少ないので当然です。

数か少ない方相手に商売をしても、なかなか難しいでしょう。そんな人達は、もうそんなにモノやサービスを欲しがりませんからね。

商品で自尊心を埋める

世の大半の商品が自尊心を埋めるためのようなものなのだから、当然に自尊心欠落者で溢れかえっているはずです。自尊心自体が虚像なのにそれをあたかも当然で、主軸かのように錯覚しているからこそ成り立っているのでしょう。

そうでなければ、この社会には最低限のインフラと生産効率性、生命維持に関連するものくらいにしか関心がなくなり、自慢の要素で付加価値をつけているものは全てなくなっているはずです。

ブランディング

しかしながら現状では、「ブランディング」というような言葉が沢山囁かれています。それは、本質二の次で「自慢できる」という目線での付加価値創出の話です。味そのものより老舗の看板、商品の出来よりブランド名です。そうなれば社会での生き方、というより儲けたければ「お世辞」を多用すればいいでしょう。

ブランディングといったタイプのものは「自慢」や、「こんなものを使えるだけの価値がある人間」ということが付加価値の付け方としての大半です。

それに釣られることは、つまりは自尊心という虚像を錯覚し、それが満ち足りてないと感じている証拠です。だからこそ「褒め」もその役割を果たします。

スタッフ力

それが一種のスタッフ力と言われるようなものでしょう。同一の商品なのに、たくさん売る人とそうでない人がいるのは、誠実さ、信用、清潔感、態度などもありますが、相手に合わせた最適の「褒め」ができることによって、自尊心充足という無形の「付加価値」を創出しているからでしょう。

以前友人から「なかなかの評判」という噂を聞いて、某百貨店へ向かったのですが、その店員さんは、僕と数分お話をして、褒めかけたものの、「この人は下手に褒めるとまずい」と察知したのか、すぐさま僕の気質を見抜いて褒め要素ゼロのまま、対応してくれました。

そこまで柔軟に対応できる人で、プロと呼べるのでしょう。胡散臭いセミナーを受けただけの付け焼き刃の保険屋とは違いますね。

「いいところを見つけて褒めればいい」というアホの一つ覚えです。

良いのか悪いのかは、本来はなかなか判断できないものです。それもどの視点からの見解なのかによって白にも黒にもなることです。

事実以上の脚色は、人を騙している

ただ、「褒め」に関しては、どう言い訳しようが、それは人を騙しているということをお忘れなく。誇りのように使い方には十分に注意しなければなりません。

正確には人の「アイツ」を騙しているので、特段悪いことではありません。謂れ無きことでけなしたりすることよりはいいことでしょう。しかしながらアイツの中にいても、せめて自分だけはそんなものに騙されないように。そして、相手を有頂天にさせて、その快感に溺れさすこともないように。

ただの印象としての事実をそのまま言うだけで十分です。それ以上の脚色は、自分も相手も騙すことになるのですから。

尊厳・自尊心と承認欲求

お世辞屋の風土 曙光 158

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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