「良心的」な人々

最も厳しく良心的であることに最も多くの価値を認めるのはどういう人間であるか、諸君は注意したことがあるか?多くの悲惨な感覚を意識し、自分のことを自分で心配し、他人を恐れる人々、その内心を出来る限り隠そうとする人々、― 彼らは、あの良心的であることの厳しさと義務の苛酷さによって、他人が(ことに部下が)それによって受け取るに違いない厳しくて過酷な印象の力で、自分自身に畏敬の念を起こさせることを努めるのである。 曙光 233

昔、といっても小学生くらいから「あの人はいい人だ」と言われる人に対して何かの違和感を感じていました。ついでに言うと「あの人はいい人だ」と言われる人だけでなく、言う人もどうかしていると思っていました。

この違和感を自分で説明できないままに過ごしていましたが、ある程度大人になってから、やはりこの違和感は、何か意味のあることだということがわかりました。自分自身に畏敬の念を起こさせるくらいならまだいい方です。

自尊心の充足か?

みんなが「いい人だ」という人に対して、そう言われていることへの違和感を感じていることを理解できた人々が今ではみんな僕の親友になっています。

なんかおかしい。

何かがおかしい。

ずっとそんなことを思っていました。

それは同様の行動をしていても、そのうちにある心の状態によって、隙間に「違和感」を放っているから感じてしまうものでした。特に「おごってやる」というタイプの出来事に関しては敏感にそれを感じていました。

ブラック企業に限って、入社直後は豪勢な旅行に出かけたりするものです。そこまでの露骨なことでないにしろ、自尊心の充足が目的でやっているのではないか、という疑問はずっと残っていました。

つまりは、しょぼくれている虚像の自尊心を再び盛り上げるために、多少のお金や労力を使って、ある意味で相手を踏み台にしつつ、盛り返そうとしているのではないか、という懸念です。

相手の自尊心を突く

同時に相手の自尊心を突くことによって、相手は錯覚しているのではないか、という疑問が起こりました。ある目的のため、―それは、相手に何かを買わせるという目的、―のみならず、相手にいい人だと思われよう、相手からのエールをもらおうというものです。

すぐに、単純な目的が思い浮かびますが、相手からのエール的なものを欲するという動機が、どこか見え隠れしました。行動としては、自分も相手も喜ぶようなことですが、その奥の動機が少し変な時はアラが残るものです。

そういえば、すごく変な出来事があったことを思い出しました。

「先生のおかげです」を強制

一応吹奏楽部だったのですが、学外で演奏をした時のことです。

たいてい演奏の前には部長などから挨拶があるものです。

その時は、部員の誰かの通っている音楽教室関連の演奏会でした。

その時に部長がカンペを使いながら読み上げた言葉に寒気がしました。

「○○先生のおかげでこのような場をお借りすることができ…」

という一文です。

しかもこれは、吹奏楽部の部長の自作ではありません。その部員の誰かの通っている音楽教室の先生が自作したものです。部長の真意ではなく、先生が自作してこちらに読ませているという寒さです。

どういう神経をしているのか理解できません。こちらの顧問が書いたものならまだ理解できますが、当の本人が書いたものを、部員を通じて部長に渡して読ませたというのです。

めんどくさい挨拶文まで自作してくれるとは、甚だ良心的ですね。

「良心的」な人々 曙光 233

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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