「純粋な精神」の偏見

純粋な精神、純粋な人、そういう時に使われる「純粋」は、純粋ではなく愚かなだけの可能性が高いでしょう。無知が一番の元凶と言われますが当然です。

ここでいう無知は、「日本語を知らない」とか「テストの点が悪い」とかいうものではありません。純粋すらアイツに利用されます。

そういう観念、ラベリングがあると、「純粋、あるがまま」といっても、キャンバスにペンキをぐちゃぐちゃに塗って「何にもとらわれない芸術」という結果を生み出す原因になります。

無知と純粋

じゃあ何が無知なのか。何が純粋ではないのか、ということに疑問が出てくるでしょう。

無知というのはあるパターンに対する言語のラベリングにしか過ぎません。それを何と呼ぼうが構いませんが、次のようなことです。

ここにコップはありますか?

というような質問に対して、「イケアのコップがある」「そこに一つだけある」とかいうのは聞かれてもいない属性を勝手にくっつけているだけで純度は低いというようなことは直ぐにわかりますが、こうした属性づけをしてしまう様は、世間ではよくあるような光景です。

そこで、「あります」というような答えが純度の高いような答えに見えますが、それは物事を純粋に見ているわけではありません。

そこで普段は「答え」に対して正解などを定めたりしますが、その答えの手前にどんな理由のもとそういう答えになったのか、というようなことを考えてみましょう。

コップに反射した光が目に触れて周りとの光の差であると認識した、という結果を心が受け取って今はそれを感じている、ということになるのですがそんなことを考える人はあまりいません。

ただ、あるのではなくて、この瞬間はその現象の結果を受け取っている、というだけで、あるということはあるのですがないといえばない、しかもそれは瞬間瞬間に変化しています。

だから実体はありません。

巨視的に見ている

変化していないように見えるのは巨視的に見ているからです。

つまり「ざっくり」みているからで、普通に考えれば変化しないはずがありません。巨視的な見方で捉えていたものを、少しだけ微視的に捉えたとしても、物質が存在していようが温度での膨張などが確実にあります。

そして見ているということは光の量も外部的にも変化すれば、瞳孔の開き方も一定ではありません。

顔を少し動かせば遠近も変わります。少しも揺れ動くことなく顔を固定できる人などいるはずもありません。

ちょっと厳密に考えるだけでこんなことはすぐにわかります。

プラトンとイデア

プラトンはその先にイデアというものを考えましたが、それは観念です。人間が知りえないものでもなんでもなくて、捉えられないが感じている、というようなことです。それが実在するわけでも、永続するわけでも、神がつくりだしたものでも何でもありません。それが「あって」「把握できた」ところで何になるのでしょうか。

捉えようのない何かが「ある」といってもそれもイメージです。あるわけではありません。あるのだからどこかにある、でもそれを人間は知りえないのだ、というのは余計な関連思考ですね。

それに創造主のようなものをくっつけるのは行き場のない思考から悶々と出てきた感情エネルギーを「落ち着けたい」ための自己説得ということになります。アイツの餌食になっている典型例です。

プラトニック

プラトンは純粋に精神的という観念の代名詞のようになっていましたが、純粋さがあと少し足りなかったように感じてしまいますね。

自分たちは知り得ないものの、本質としての実在があるという様に捉えてしまいました。

その少しの差は、かなりの差ですが、プラトンとしては、彼は彼で生涯をかけて考えてみようとした人です。どこかに何か絶対的ですがりつけるものを探していたのかもしれません。

そんなプラトンから派生したプラトニック(platonic)ですが、発情して目をうるうるさせるのが「プラトニック」ではありません。

ダメと思い込んでいる自分を「好きだ」と言ってくれる人に包まれた時の安心感、ドラマや映画、小説でよくありそうな、「夫婦という制度の中での偽りの愛ではなく、『純粋に求め求められる愛』」、それは純粋に精神的なわけではなくて、純粋に本能的、といったほうが近いと言えるでしょう。

「純粋な精神」の偏見 曙光 39

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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