「真理」のために!

「キリスト教の真理が本当であることを証明したのは、キリスト教徒たちの節操のある実行であり、苦しみに際しての彼らの沈着であり、しっかりした信仰であり、何よりまず、あらゆる試練にもかかわらず普及し、成長したことである。」― そのように諸君は今日でもなお言う!気の毒なことだ!これらすべては、真理が本当であることも証明しないし、偽りであることも証明しないこと、真理は真実とは違った証明がなされること、そして後者は全然前者の論拠ではないことをどうか学んでくれ! 曙光 73

たまに「社会的に考えてはいけない」というようなことを言っていますが、さらにいうと、「人間の頭」というか人間目線の思考方法で、人間と人間の間のことだけを前提に「社会的に考えては誤謬にたどり着く」という感じです。

「証明できているようで、まだ穴がありますよ」という感じです。

人と人との関係で、人を説得するくらいはできますが、人を説得できても、「説得できたことが真理であるという論拠」にはなりませんよ、という感じです。

人が何かを考える時、人間である自分をベースとして考えるのが一般的です。

しかし、人と人との関係だけが「社会」だとしても、そして、世界を客観的な世界として考えた場合でも、もちろん人だけで構成されているわけではありません。

同情という善悪基準

10代の頃、どうして、人を殴ってはいけなくて、植物を折り取るのは何とも思わないのか、ということをずっと考えたことがあります。

その時の答えは、ニーチェ風に言うと「同情」にありました。

ただ単に人なら感情移入と言うか、相手の感情を判断することができて、自分のことと置き換える事が可能なので、意識的に不快感を得るものの、相手が植物なら感情的な反応はしないので、相手の感情に同調することが無いという感じでした。

抵抗感と善悪の基準

相手が人ならば、何となく表情などから相手の気持ちが分かってしまうので、我が事と置き換えやすく抵抗感が生まれますが、相手が植物なら、感情的に無反応なので、抵抗感が生まれにくいという感じです。

そんな感じで、同情というか表情などから同調してしまい、自分も不快な感情を味わいやすいという目線から、相手を傷つけることを厭う基準というものが出来上がり、それが善悪の基準となっているのではないかということを考えました。

人が何となく「やめておこう」と思う境目はどこか、ということを考え、人間、動物、虫、植物と、様々な対象でイメージした結果はそんな感じでした。

脳と心がイコールだという主張

世の中では、脳と心がイコールだという主張があります。

しかしながら、それは実際のところ「わからない」というのが本当のところではないでしょうか。

何となく五感や意識をベースとして人間ベースで考えているから脳と心がイコールだということになるだけで、心自体をどう定義するかで結論は変わってきます(心とは何か)。

何某かの認識を受け取る働きが心だとすると、脳がなくても生命活動をしている全ての生き物には心があるはずです。

ということはイコールで繋ぐことはできません。

認識に対する記憶の連続性、つまり脳の働き、アイツの働きを心としてしまうのは少し違うような気がします。

痛み感じている時に脳はどんな反応をしているか計測できる、というところからの推論ですが、それは証明をしているようで、最後の最後が繋がりません。完全には証明できていないのです。だから「わからない」という感じです。

昏睡状態のときの記憶がなくても、それは「記憶されていない」というだけで、その瞬間に何かを認識はしていた可能性があるからです。というより、おそらく呼吸なんかはしていますから、「酸素が来たぞ、運べ―」なんてなことはやっているはずです。

といってもだいたいはイコールでしょう。でも厳密にはわかりません。

動物や植物には愛がないという主張

動物には、同種の動物への愛はあっても、例えば人間に対する愛はないというようなことを言う人がいます。

でも僕はそうは思ってはいません。

なぜなら、そういう人たちの愛の定義が人間目線だからです。

他者への愛というと、「困っていそうだから助けてあげよう」というようなものが愛だと思っています。

慈善事業家のようなものだけが愛だと思っているフシがあります。

愛の反対は無関心で、自然界の動物は人間に対して無関心だから愛がない、とでも言うのでしょうか。

自分になついてくれば愛があるが、なついてこないので愛がない、とでも言うのでしょうか。

自然界は絶妙なバランスで保たれています。そして、絶妙と言っても、少しの崩れくらいでは、全体が崩れないほどのすごい構造を持っているはずです。

植物には脳がないから心がない、そして心がないから人間に対する愛がない、ということにはなりません。

別に僕個人のためでなくても、「人間のために」と思っていなくても、そこにいてくれるだけで、僕が生きていく上での必要なものを与えてくれています。

そして全ての生き物が絶妙なバランスを取りながら、ただ生きてくれているだけで、僕は生きていることができているはずです。

そこに、思考の産物である「愛」という概念がなくても、です。

真理とは何か?

「真理」のために! 曙光 73


動物や植物には愛がないという主張の裏には、推測でもいいので、相手の感覚を理解しようという気持ちがないという意味で共感能力が不足しているような感じがします。動物の中でも特に哺乳類であれば何となく推測しやすく、逆に若干構造の異なる爬虫類や魚類などであれば気持ちや感覚は推測はしにくいという感じになりますが、基本的に生命活動を行っているということは、生理的な反応としての快さと苦しみというものがあり、それを考えれば、種は異なれど何となく相手の気持ちも理解することができるだろうと思います。

動物の行動の真の意味

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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