風習と美

握手というものは、万国共通だということを聞きますが、ネパールで友人のお兄さんに初めて会った時に、右手で握手して、さらにいつもの癖で左手を添えると怪訝な顔をされました。

インドやネパール等々、一応あの文化圏では、左手は不浄の手とされていて、トイレに行った時でもトイレットペーパーなどを使わずに、原則左手で洗うようですから、確かに怪訝な顔をされるのはわかるような話です。

が、握手の際に怪訝な顔をしてしまうくらいなら、そんなこだわりというか風習はやめたほうがいいのではないでしょうか。

嫌な気分発動条件

それは文化の押しつけでもなんでもなくて、左手を当てられると「嫌な気分になる」というのは、「嫌な気分発動条件」が、ほかの人よりも多いという無駄だからです。

その国の文化として左手で股間を洗うのは結構ですが、他の人に触られたからといって嫌な気分になるのは無駄なことです。自分でやるのは結構ですが、そんなことを気にしていたのでは、何のための風習かわかりません。

握手等々人と人が仲良くなろうとする時に文化や風習が邪魔をして、嫌な気分の発動を追加していくことに意味はあるでしょうか?

不快になってしまう条件が多ければ多いほど、人は幸せと逆行します。問題がない風習であればよいのですが、そこに無駄な文化風習があり、それによって無駄な感情を感じてしまうことは無駄としか思えません。

問題がない風習

問題がない風習として、例えば個人的に今年の新米が初めて収穫された、ということで「いつもはジャーですが、一発目は土鍋で炊きます」というような風習は別にいいのではないでしょうか。

いざ「土鍋がない」といって騒ぐのはやめておいたほうがいいですが、一発目を丁寧に炊いてみるということくらいはよいと思います。そんな風習くらいは何の問題にもなりません。

また、例えばトイレにおける振る舞いにしても、「変だなぁ」と思うような仕草であっても別に害がないのであれば文字通り害がないので問題にはなりません(駅のトイレットでは)。

通常語られる風習は、どこかその奥に宗教的なロジックが隠れています。ネパールでの握手の一件も、その土地の風習と言えば風習ですが、奥にバラモン文化、ヒンドゥー教文化を支える宗教観が潜んでいます。

風習の倫理の概念

条件反射で無駄に嫌な感情が起こる

しかしながら、ネパールで起こった握手の一件では、こちらの気持ちとしては「不浄の手を添えて、嫌な気分にしてやる」と思っていないのに、向こうは条件反射で無駄に嫌な感情がわき起こってしまう、その直後に文化の差を頭で考えて、特には怒らないというようなことが起こっています。

僕はそのことで嫌われても構いませんが、一瞬でも嫌な感情が発動してしまうような事柄は無くしていったほうがいいでしょう、と思ってしまいます。

風習と美 曙光 25

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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