雑な首尾一貫性

われわれは特筆大書していう。「これこそ特色のある人物だ!」― そうだ!彼が雑な首尾一貫性を見せるとき、それが、どんよりした眼にも明らかであるとき!しかし、一層鋭く、一層深遠な精神の持ち主がいて、高級なやり口で首尾一貫して見せるや否や、観客は、特色のある人物がいるということを否認する。そこで狡猾な政治家は、一般に雑な首尾一貫性で偽装して、その狂言を演じるのである。 曙光 182

まあ、B層戦略を見れば明らかで、歴史的にも大衆扇動の方法として古くから使われてきました。

結局まともな人ではなく、よくわからないキャッチとともに地域の盆踊りに来て握手をして回った人のほうがある意味政治家としては優れているというようなことです。

それが民主主義の最大の欠点です。で、他にも民主主義には欠点があります。むしろ見方によってはこちらのほうが問題です。

リーダーシップが否定される世の中

民主主義が良しとされれば、一人の人物がリーダーシップを発揮して全て決断してしまう構造に大して「独裁だ」というレッテルを貼る社会になります。

確かに当のリーダーの私利私欲に合わせたものなのであれば、独裁なのかもしれませんが、特に日本の中で「リーダーシップ」として評価されるようなものは、「みんなの協調を取りまとめる人」くらいのものです。

しかしそれはリーダーシップではありません。リーダーは仲介人でも仲人でもないのです。

引っ張っていく人であるはずです。

独断で方向性を決断

ということは、独断で方向性を決断し、周りを奮い立たせるというようなことがリーダーには必要なはずです。周りの顔色を伺っているような人はリーダーではありません。

戦後大きくなった日本企業は、ほぼ例外なくリーダーがいました。しかし彼らはもう死んでいます。だから衰退の一途をたどっています。

表面的なことだけ見てしまうと「斬新なアイデア」とかそういったものだけが素晴らしいというような勘違いをしてしまいますが、実はそんなものは結果であって、企業が急成長した直接の原因ではありません。

人に気を使うと視野が狭くなる

人は人に気を使うと、視野が狭くなります。頭も回りません。

そんな中で、そこそこの人たちが、周りを説得するような形で、妥当性の中から新しい案を考えても二流三流の案しか出てきません。

二流三流の案だからこそ、それほど大きな失敗もないと思いますが、それがそれほど功を奏することもありません。

そして民主主義の中では、そうしたある意味で「雑な案」しか採用されません。

だからジリ貧になっていく一方になります。

みんなの責任

責任を取るのが恐くて、民主主義の名の下、「みんなの責任」という構造にしたがっているだけという感じです。

そうなると、ほとんどの場合、リスクのあることはできません。

人が何かをやるときはひとまず最初は失敗することがほとんどです。なぜならたいてい企画段階では見えない部分があり、事を進めてからしか問題が見えてこないというのがほとんどだからです。

ただ、やり始めなければ見えもしないのに、相談ばっかりしているのが「会議」というものです。実際はほとんど頭を使っていません。

特に一貫性もなく、周りにとって雰囲気がいい、そんな人がこうした場ではモテます。

遊ぶときならそれでいいかもしれませんが、もし、組織をしっかりと運営していくのなら、協調という言葉の奥にある「責任逃れ」の心の動きと先に戦うべきでしょう。

雑な首尾一貫性 曙光 182


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