隣人憎悪

他人が自分自身を感じるとおりに、われわれが他人を感じるとすれば― ショーペンハウアーが同情と呼ぶもの、そしてもっと正確には、苦しみをひとつにすること、共に苦しむことといえるものだが―、他人が自分自身を、パスカルのように、憎むべきものと感じるときには、われわれは他人を憎まなければならないであろう。 曙光 63 前半

隣人憎悪ということで、だいたいトラブルのもとになる隣人についてでも書いていきます。

以前、共◯党の町内会長に、家の横をゴミ置き場にされかけたことがあります。

「お互い様!」と言いながら、自分の家の前にはゴミを置く気がなく、掃除当番なども定めないまま一方的に人の家の横をゴミ置き場にしようとしてきたのです(もちろん拒否しました)。

そんな感じで、隣人間では何かと揉め事が起こりやすいですが、リアルに家の隣に住んでいる人の家から罵声と共に聞こえてきた内容についてでも覚書程度に書いていきましょう。

なお、特にその隣の人と僕が揉めたわけではありません。

単に大声で罵声が聞こえてきたので、なんだかこちらも嫌な気分になったという思い出です。

人は感情的になるとここまで何でもありで人に罵声を浴びせるのか、というような出来事です。

新婚さんが仕事を辞めてきた

子供も生まれたての新婚さんの家ですが、夫である男性が仕事を辞めて帰ってきたようでした。

理由はよくわかりませんが、もう職場に限界が来たのでしょう。

ということで、妻側はその両親を呼び出し、加勢させるというか代弁させるような感じで罵声を浴びせ続けるのでした。

個人的には仕事を辞めて結構、もっと好きな生き方をすればいいと思っていますが、世間ではそんなことを思っている人はあまりいません。

逆に僕や経営者仲間からすれば、「そうとは思えない人たち」は、どこか奴隷体質で、ただ「社会に飼われている」というような印象すら持っています。

まあひとまずそんなことはさておきましょう。

罵声とともに侮蔑・暴言

で、「なぜ仕事を辞めたんだ、今後はどうしていくのか?」というところを聞くこと自体は別にいいのですが、問題はそうした時に罵声とともに侮蔑ともとれるような暴言が連続していたことです。

特に妻側の母親と思わしき人物の罵声は、差別に満ちたものでした。

「中学もろくに出てないんだってね」

とか

「お母さんがいないとこんな人間になるのかな」

というようなものでした。

まあ、「仕事を続けられない」という理由として過去のことを持ち出したり、回り回って本人ではどうすることもできなかった両親の離婚まで持ち出してくる、というわけです。

ここにメスの醜悪さを感じました。

熟女は魔女であるという西洋の詩人の格言が染みたものです。

そして、妻側は3人でその「妻の母」の罵声を後押し、まあ僕なら「すぐに離婚するけどなぁ」なんて思いながら延々と数時間も続く罵声に聞き耳を立てていました。

愛のある妻なら、さすがに母を制止するだろうと思うのですが、加勢していました。

たまりかねた夫がキレて事件でも起こるのではないかと思ったほどです。

でも、夫は泣く泣く「頑張ります」という感じで謝罪する格好になりました。

「えーーーーーーー!」

僕は驚いてしまいました。

何も言わず離婚届を提出するか、開眼前の僕ならですが「三人まとめて半殺しにでもしよう」と思います。

「すごい奴隷だ」

そんなことを思ってしまいました。

隣人憎悪 曙光 63

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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