隣人をもこえて

何だって?真に道徳的なものの本質は、われわれの行為が他人に及ぼす身近で最も直接的な結果を注目し、それに従って決心することにあるというのか?これは狭い小市民的な道徳であるにすぎない。 曙光 146 序

いちばん身近な「隣人」は、家族ということになりそうですが、世の中では家族がいない人もいるので、隣人とは常に接するような身近な人という感じになりましょうか。

僕は昔から実際の家族が一番大事だということを思ったことがありません。

それが何故だったのかはわかりませんが、あまり家族というものに執着自体が無かったのでしょう。

とちらかというと、10代の時の発想としては、キリスト教的であり、個々人の間の公平さと個人の自由を尊重しているような感じでした。

父や母にしても、僕にとっての父や母という関係性の上での人格以前に、一人の独立した人間であることを先に尊重すべきだという感覚がありました。

だから、父であるからにはこうあるべきだ、母であるからにはこうあるべきだ、という感じは全くに近いくらい無く、基本的には自分ひとりでやりこなすべきところを無償でサポートしてくれているという感覚がありました。

小学生の時はそんなことを考えすらしませんでしたが、中学生くらいのときには自分と家族との関係性をそのように考えていました。

その上で、病に倒れてからは、やはり支えてくれていたのでありがたいと思っていました。

しかし、個々人の自由が前提にあったため、自分が原因で起こしている家族の行動の制限に対しての自責が起こりました。

おそらく精神科医はそういった意識のプロセスを全く知らないまま、僕を薬漬けにしたのでしょう。

今の感覚としては、家族への感謝はありつつも、その感謝の矛先は家族に限定されるものではなく、僕が感じる全てになっています。

僕の自我自体が、誰かとの関係性の中で、形付いているという体感があります。

だからこそ、特に家族に限定すること無く、人にすら限定すること無く、全ての命あるものの苦しみが無くなればいいと思っています。

少しズレている人たち

そこで考えてみたいのが、少しズレている人たちです。

実際問題として、精神疾患は薬では根本解決にはなりません。そして薬の効果と「栄養・運動・睡眠」の効果を比較しても、後者のほうが勝っています。

さらに、結果を物理的に操作するよりも、原因を変えてしまえばその後に現れる結果は変化するという方に着目するほうが正しいはずです。

おそらくズレている人たちは、悪意を持ってそれと逆のことをしているのではありません。

本人たちもわかっていないのです。

もしくは本人たちも歪んだ信念のもとで正しいと思っていることを善意でやっているだけなのかもしれません。

カルトにハマった人を思い浮かべてみましょう。

彼らの勧誘は、嫌がらせでも、嵌めるためでもありません。

本人たちは、相手の幸せを思って最大限に善意で突き進んでいるのです。

しかし、その根本にある信念が歪んでいることがあります。

だから結果的に無差別テロになることもあるのです。

しかしながら彼らの信念は彼らがアプリオリ(先天的)に持っているものではありません。

必ず経験の元に形成されたものであるはずです。

そう考えると、その歪んだ信念は、誰かに植え付けられたものであり、また、その植え付けた人も誰かに植え付けられたものでしかなく、悪者は不在です。

だから悪者探しをして糾弾するよりも、自分がズレないことが一番です。

隣人をもこえて 曙光 146


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