開設から半年が経ちました

常連さんいつもご高覧ありがとうございます。

本日をもって本サイト開設から半年が経ちました。これで258回目の投稿になります。外国人スパマーさんも含め、152件のご連絡を頂いています。今のところ日本語でのスパムは来ていないので嬉しいですね。やはり外国人さんは日本語が読めないようです。

もう少しクレーム的なものも来るかなと思いつつも、未だにそういった類のご連絡はありません。もし頂いても、ただのクレームなら無視するだけなので、やはりそういう気質を見抜かれているのでしょうか。

半年記念の回として、いつものように普段とは少し違った感じで書いていこうと思います。と思いつつも、結局普段通りっぽくいきましょう。

ちょうど前回が「がっかり」だったので、俗世間的ながっかりについてでも書いていきましょう。

私事的がっかり

僕にはあまり「騒ぐ系」つまりウェーイ系の友人がいません。ウェーイも楽しいならそれでいいだろう、と昔は思っていましたが、やはりウェーイは苦しみが多いので良い悪いというよりも「かわいそう」が先行します。人と一緒にいすぎると、それだけである程度の刺激が得られるので、何かを深く考えることも感じることもしにくくなります。本当は目の前にいる「自称カッコいい人」や、「誰が見てもカッコイイ人、とされている人」が実はどこかおかしい要素を持っていて、そのかっこよさの隙間から漂う「おかしさ」、つまり「おもしろさ」などに気づく能力は養われない、という弊害があります。何が苦しみかというと、外からの刺激がないと、「楽しくない」ということで苦しんでしまうことです。そしてそういう刺激に永遠を求めてしまうことです。だからこそ「絆は永遠」などという言葉に惹かれるのでしょう。しかしそのままを見てみれば刺激への依存であり、刺激の奴隷です。そこで逆に一応世間では「まともな人」とされている人、つまりその極致であるギムキョに相談しても、彼らですら「人とのつながり」自体は大切にしましょう、といった旨のことをいいます。そこで「がんばろう○○」などという言葉が標語にされます。

しかし、そんなことが本題ではありません。今回は私事の中で「がっかりした」経験の中から、5段階の3から4くらい経験について触れていきます。

哲学を理解できるからこそ

といっても、上述のものが一切関係ないかというとそうでもありません。「騒ぐだけ」の友人がいないからといって、騒いだ経験もないのか、ということにはなりません。特に20歳を超えてからは、そういったものは激減しましたが、代わりに、変な経験がたくさん起こりました。

19歳くらいから毎日3~10冊程度の本を読みあさっていたということで、古くからの友人らともちょくちょく哲学的なお話をするようになりました。その頃(20代前半)は、いろんな大学の「研究会」に呼ばれたりしていました。ただの群れたがりのように感じて、ほとんど断りましたが、その当時でも、哲学専攻の准教レベルならフラフラにさせる程にはなっていました(知識では勝てないかもしれません)。そして「哲学に興味があるなら」という「ビジネスに興味があるなら」みたいな感じで、友人から「会って欲しい人がいる」という流れになりました。

だいたいその時に薄々は勘付くものです。こういうときはマルチか宗教と相場は決まっています。この時は後者でした。

名目上「哲学論理バトル」ということで、呼び出された駅に着くと、少し年上の好青年が友人と車で迎えに来てくれました。そして、どこかの店にでも入るのかと思えば、好青年の自宅に僕は運ばれました。

到着して、玄関に着くと、いきなりです。呪文のような声が家に響いています。

「気にしないでくださいね」

好青年はそういいましたが、気にならないわけがありません。ただの論理バトルなら軽い気持ちでできますが、僕は本気で挑むことにしました。

本来ならその場で帰ってもいいところです。別にどこか大通りまで出てタクシーでも拾えば駅まで帰れます。しかし、その場にいた友人は、文字通り苦しい時も悲しい時も、そして楽しい時も嬉しい時も、たくさん一緒に経験した友人です。彼女が出来るだけで去っていくようなウェーイの付き合いではありません。こうなれば、その好青年を論破して、その友人にも伝えなければなりません。

この時に、相当がっかりしました。しかしこのがっかりはかなり複雑です。友人の宗教入信、「騙し」のような運び、しかしその裏には「大切な友人だから幸せになって欲しい」という一種の愛情的な友情があります。単純に騙そうとしているわけではないところが、僕を残酷にさせてくれませんでした。

いざ哲学バトル

哲学バトルというものは、思考の戦場です。ディベートでは資料を根拠に、ということになりますが、この時は資料など関係ありません。低次元の戦いなら「知っているか」をフィールドに上げてきます。「○○も知らないのに言うな」とか「○○もしたことないのに言うな」とかですね。それはクイズの見すぎです。それは言葉によるラベリングの違いなだけで、ある法則や対象が「どう呼ばれているか」というような問題であって、それを知っている/いないは関係ありません。知っているかいないかは大して問題になりません。もし相手が知らない場合ならその概要を相手に説明できなければ武器にはなりません。相手に説明して、相手が完全に理解できてから話が始まります。論理上相手が理解できるものであれば、法則や可能性として、知っている/いないに関わらず、はじめからあるものです。それを知っていれば偉いとか知らなければ発言してはいけない、というのはトンチンカンのやることです。

さすがにそういうトンチンカンはありませんでした。

ああいう類は、すべてが間違っているわけではありません。「正解も言っている」というよりは、事実に解釈を加えた時の帰結としては可能性としてその「行き詰まり」くらいまではなんとか行っている、くらいのものです。ただ、人に説明するときにはたいてい「根拠」が必要になります。根拠なしに説明できるものはなかなかない。説明が気分的なものになります。

もしくは話が途中までで終わっていて、途中までで満足しているような状態です。そして、変に納得しているので、自分の矛盾に全然気づいていなかったりします。たとえば、インドにはまった人で言う「無念無想の瞑想の中で真なる自己を悟った」というものですが、「真なる自己」が出てるので「無念無想ではない」はずなのですがいかかでしょうか。残念ですがそれは無念無想ではありませんね。

話の内容はほとんどそんな感じでした。あって、無いような話というか、世間的道徳に近いようなもので、特に言い返す必要の無いようなものでした。言い返すこともできますが、別にその必要の無いような話です。哲学や宗教というより倫理学に近いような話、その中で、一番最後に核心に迫るような話になりました。

「ここに本願を書いて拝まねば叶わない」

というような話です。

全然理解できないような話ですね。「そもそも本願ってなんですか」でも良かったのですが、世間的な返しが来るような気がしたのと、当時の僕は印象的にまだ「アイツの中」にいましたので、友人にもわかるようになんとか手はないかを模索しました。

すぐに浮かんだのが「どうしてその方式限定なのか」という質問です。

仮に歴史というものがあるならば、ということで、まず歴史上の人物について(その宗派の源流の人たちも含め)、その人たちの偉業を認めてもらいます。先に退路に楔を打つというやり方ですね。そして、そのやり方が発見されるまで「叶わなかったのか」ともう一度聞いてみます。すると先に認めているので、そのやり方、つまりその好青年の宗教ができるまでの間にも「叶っている」という矛盾をつきました。ただしこれには穴があります。ひとつは「本願ではなかった」という点、もう一つは「そのやり方に近い方法をとっていた」という逃げ道です。どちらに転んでも相手の出方によってそれをクリアする先読み自体はしていました。前者なら「本願の定義」を、後者なら「唯一絶対の方法ではない」という点です。

ありがたいことに、本願のたとえとして、話の途中に「営業目標を達成できた」とか、「彼女ができた」という例を挙げてくれました。ですので、彼の言う本願の定義は「俗世間的な願望」ということになります。ということで後者の方法で攻めることにしました。

「唯一絶対の方法ではない」ということです。仮にそれまでの彼の仮設がすべて正しいとしても、話の流れから、こういう点が浮かび上がってきます。本来はもっと手前から何とでも言えます。しかし、感情の高ぶった彼らが「落ち着いて」論破されてくれるにはこれくらいでちょうど良かったでしょう。ということでこのことを伝えました。次にくる返答も予想できていました。「これが一番効率がいい」とかいう類ですね。

バトルの終末

そしてこの方式にこだわる必要はない、ということは言いましたが、予想した返答とは違うものが返ってきました。

「これしかない!これで僕は叶ったんだ!」

宗教の洗脳パワーはすごいものです。営業マンの泣き落しにも近いくらいの無様なさまです。友人は固唾を呑んで俯いていました。

そこで沈黙が数十分続きました。

終電の時間が近づき、僕は「そろそろ帰ります」と伝えました。

友人は泣いていました。悲しくもない、嬉しくもない、よくわからない表情をしながら「ありがとう、今日はありがとう」と、涙を浮かべていました。

僕はどう返事していいかわかりませんでした。

この時、ある哲学者が、「人は論理的に見えて感情で全てを決定している」といった旨のことを言っていたことを思い出しました。

ギャンブル狂いにいくらそれが非効率なことだといっても聞き入れてもらえないように、アイツの内にいる間は、頭でわかっていても感情や想像力には勝てません。それを言葉や行動で押しつぶす方法もありますが、カンフル剤です。カンフル剤の効果で一時的に苦しさが紛れます。それを繰り返すとずっと苦しさがないかのような錯覚が訪れます。しかし、それを「しなければならない」という状態は苦しみです。怪しい薬物と同じですね。

その時、友人は一時的にでも苦しさが紛れていたのでしょう。それはおそらく彼の中では事実でしょう。そしてその感覚を僕に伝えたかった、というのは「信者獲得」という動機というよりは、「こんな面白い遊び見つけたぞ!」というような少年の持つ友情に近い感覚だったのでしょう。

おそらくあの時、僕がいくら説得のようなことをしても、彼はそういった至福感的感情の経験の記憶に勝てなかったでしょう。特に彼を変える気はありませんが、その時僕はすごくがっかりしました。


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