道徳的な感情と道徳的な概念

これだけ道徳、道徳、と繰り返していては、道徳が好きなのかと思われそうですが、繰り返したくないのに繰り返さざるを得ない、これが特別企画の醍醐味です。

道徳の厄介なところは、それを教え込まれてきたから信じ込んでいる、という側面を持ちつつも、その要素に気持ちがスッキリするというものが含まれ、また、社会的に見たときにはそれが妥当、というようなことも含まれているので、取り扱いが難しかったりします。

道徳教育の難しさ

自分の嫌いな人が「教え込もうとしている」と感じると、少年はグレてしまいます。なぜなら二元論しかないからです。

自分の嫌いな人に同調したくない、そこで考えられる抗いは、押し付けられようとしている道徳を守らない、ということになります。

いかに道徳、つまり習慣からはじき出されたその「形而上学的意味付け」であっても、道徳を教育すべく言っている側も「それを反駁する程の頭がない」などの理由くらいで、「まあ、実際はどうかわからないけど、ひとまずそういうことになってるんだろう」という安易な納得しているため、それを疑うこと無く人に「教育」しようとします。

本来二元論を飛び越える性質のものでも

本来的には二元論を飛び越えるような性質のものでもすべてイエスかノーかで判断するようなことになってしまうので、道徳を教育される側の少年としては「ノー」を選択せざるを得ません。

そこで教育者側は「イエス」の方に丸め込もうとしますが、教育される側に「なんで?」と聞かれれば説明が苦しい。どうあがいても苦しくなります。

弁論大会

特に僕のような中学生なら、大人は大変です。夕食の準備があるのに相談室から帰してもらえません。

そこで議論されている内容は、古代ギリシャのアテナイで繰り広げられた弁論大会のようです。思想はさておきプラトンやアリストテレスのような頭の回転の速そうな人が、一生涯かけて考えたようなことを、相談室にて数時間で答えを出そうとするのですから無理があります。

下手に道徳的なことをこの手の中学生に説法しようものなら、サーリプッタクラスの阿羅漢が出てこないと難しいでしょう。

いじめ防止

最近、票稼ぎのためか、各地方自治体が条例で「いじめ防止」を掲げています。ギムキョがそんなものを定めたところで、どうにもなりません。

もともと暴力を含むようなものは犯罪ですから、わざわざ条例で何を定めようというのでしょうか。条例を根拠に、ギムキョが誰かをいじめようとしているだけかもしれません。

「では、どうしていじめは『防止されるべきもの』なのか、説明してください」、という中学生が現れてもおかしくありません。僕が中学生なら絶対にそのようなことを考えていたはずです。まず「いじめそのもの」がどういったものなのかの説明すら難しいでしょう。

僕は、昔書いたように、なぜいじめてはいけないかを一から説明できますが、条例を制定した人はできるのでしょうか。まあどちらにしても説得ということで、絶対的なものではありませんが。

さて、いじめをしてはいけない理由について大体の納得をしていたとしても、僕が中学生でもさらにその先の実際の抑止力的構造や、実質的効果も聞いていたでしょう。

いじめの相談先・通報先

何事も雰囲気だけのパフォーマンスでは意味がありません。その前に、どうして暴力事件なら警察、そして裁判に発展させないのでしょうか(相談相手を間違っている「一番危険な忘却」)。それが一応の法律のあり方というか、法治国家の姿のはずですが、以前、僕が中学生の時に実際に警察の方に聞きました。

暴力事件を学校だけで解決する理由

僕が中学生の時に警察の方に聞いた「暴力事件を学校だけで解決する理由」です。

質問

どうして、暴力事件が起こったときに学校だけで解決するというようなことになっているのですか?

答え

めんどくさいから

これは嘘でも妄想でもありません。「うちらもそんなに暇じゃないし、そこまで大事にするようなことでもないでしょう。中学生同士の喧嘩なら」というようなことでした。まあこれは十五年以上前の話ですが。

道徳的な感情と道徳的な概念 曙光 34


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