道徳教師の虚栄心

道徳教師が全体として成功することが少ないのは、彼らがあまりにも多くのものを同時に望んだこと、すなわち、野心に燃えすぎていたことで説明される。彼らはあまりにも快く、万人に対する処方箋を与えようとした。 曙光 194 序

万人がこぞって理解できるような道徳というものはなかなかありません。道徳が倫理的なものであり、社会の中の関係性を示すようなものだからというのがその最たる理由でしょう。

ともすれば、全体に適用するのか個に適用するのかというような尺度を元に、功利的・数量的に全体を包括しているもののほうが優れているというような風潮があります。

しかしそれは全体を考えるべきである政治家などの仕事であって、そうした全体主義的な発想が時に全体性ゆえに誤謬となることもあるのです。

個人向けともとれるような倫理であっても、本当に全員に適用できるものであるのならば、社会的・全体的に考えた場合でも結局全員に適用されるので問題はないはずです。

ところがそうした全体的なものか個人的なものかというような分類のもとに、比較優位のような判定がなされ、結局自分を制限し、誰かを制限するようなものだけが正しいとされていきます。

経験の選択

そんな学問的、政治的な全体的な道徳や倫理学を検討して、頭の中で納得してから適用しようとするよりも、自分を中心として納得を抜きにして最も爽快な状態を選択していくと、思考の先にある「誰もが頷く道徳」というようなものはさておき、それだけで物事がスムースに展開していきます。

例えばデートの時に、最も最良な合議的、民主主義的な食事先のプラン選択は、二人で意見を出し合って決めていくようなことです。

しかしよくありがちな「どこでもいい」というようなやり取りが続くと、時間も気力も浪費することになりかねません。

どちらかがわがままっぽくなってもいいので、即断即決した方がその場のストレスは最小限になります。

少なくとも、互いが「どこでもいい」という状態に留まっているよりも、一方が「うどん」とでも言ってしまった方が、何かと決まっていきます。

思考上の納得など必要ない

仮に「うどん」と言った場合、なぜうどんを選択したのかを論理として説明する必要はありません。感情的になぜか今うどんが最適だからです。

この時に推論的に思考でたどっていくのは賢明な方法ではありません。

場所的、費用的、最近の食生活による胃の状態から演算的に導き出すのではなく、いわば直感的に感情を大切にして選択すればそれでいいのです。

会社の昼休みなどではそれは難しいかもしれませんが、思考をたどって自分を納得させる必要はないのです。

そんなことをしていると、人と一緒であれば人のことまで考慮しながら選択をしていくことになります。

そうなると思考には数多くの制限がかかり、また、感情はどんどん無視されていきます。

そして妥当性を求めるあまり、うじうじしたような状態が続くのです。

言いたいことを言う人達

そういえば10代後半の頃、友人がクラブ(音楽が流れる方)のような所で出演するということで、足を運んだことがあります。

レゲエとヒップホップのようなイベントだったのですが、その時の出演者の人が、マイクパフォーマンスということで

「○○なハードコアビーボーイの奴は手挙げろ!」的なことを絶叫していました。

観客席は無言です。

彼はめげませんでした。

おそらく何かのDVDか何かで、アメリカか中米かそのあたりの人たちがステージで絶叫していたのを観て「オレも今度やってみたい」と悶々とする日々を送ってきたのでしょう。

再び「○○なハードコアビーボーイの奴は手挙げろ!」的なことを絶叫していました。

またしても観客は無言です。もちろん手を挙げている人は、その人を除いて誰一人としていません。

といっても、どんなときでもステージ外から評論する人よりもステージに立つ人が素晴らしい。

結果はどうあれ、行動を起こした人が素晴らしいんです。

何かを感じ、何かを学び、何か新しい意図が生まれるはずです。

非常に良きコントラストとなるでしょう。

道徳教師の虚栄心 曙光 194


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