道徳の歴史における狂気の意義

狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。

その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは狂気になり、自分の利益になりそうというようなことは偉業などと言われたりします。

無害というかほとんど自分とは関係なさそうならば、印象は「変な人」くらいのものです。

「危害がない」と「正気」は関連しない

道徳というものに採用される時に、根拠はよくわからないものの「まあいいか、特に悪いことではない」というようなことが基準になります。

そしてその道徳にかなっていればそれでよし、ということになりますが、僕にしてみると、先祖の供養と言って法外なお金を坊主に渡していることも狂気であり、「勤行」といわれることも狂気なら、「毎日お勤めしてるなんて偉いね」というような言葉も狂気です。

「どうして狂気ではないのでしょうか、完全に狂っています」と、僕は断言しますが、このような事を聞いたときに、仮に怒りが生じるのであれば、何かに執着している証拠です。

それはまあいいんじゃないでしょうか、というような意見があるとすれば、その裏には「別にそれをされていても自分に危害があるわけじゃないし、その人の心の支えになるんならいいんじゃないですか」というようなことですが、ポイントは「自分には危害がない」と「狂気」は関連しないというような点です。

自分を苦しめるフィルターの一つ

確かに自分には危害が特にはないので、どうでもいいことといえばどうでもいいことですが、それを道徳として認めている根拠として「世間が認めているから」というような前提が少しでも残っているなら、それが自分を苦しめるフィルターの一つである、ということです。

「それは狂気だが、自分には関係ない」との差

「世間が認めて」、「自分には危害がない」ものは「正しい」という前提や、「それは狂気ではない」というようなことが社会的思い込みです。結果というか結論としては同じでも、意味合いは少し異なります。

「それは狂気だが、自分には関係ない」というものと少し異なります。少しの異なりですが、かなりの差があります。

道徳の歴史における狂気の意義 曙光 14


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