進化と退化

「テクノロジーを筆頭に、社会は目まぐるしく進化を遂げています」

そんなことがよく言われますが、僕はそうした表現に違和感を覚えています。

いつの時代でも、「進化に甘えて、現実が疎かになっている」というようなことを言いたがる人は出てきます。

「便利さに自由を奪われている」

みたいな感じで世代間のギャップに違和感を覚えている人ですね。

しかし僕の違和感はそうしたものとはまた異なったものです。

そういう人たちが言いたいことも理解することはできますが、根本的に便利さの追求はある種の退化であり、進化とは言いません。

最適化しエネルギーを温存する

退化の基本は、現状の環境への適応に対し、最適化することでエネルギーを温存するという方向性です。

洞窟に住む動物、つまり暗闇の中で生きる動物の中には、目が無いタイプの生き物がいます。

普通に考えれば、目もついていたほうが便利だからいいだろう、ということになりますが、目を持つことで目の機能を維持したり、目からの情報を処理するためにエネルギーが余分に必要になります。

家畜化された動物の毛や羽が白かったり薄かったりするのも同じようなことです。

外敵から身を守るための色付けにもエネルギーがかかるのでしょう。そしてエネルギーがかかるということはその分食料を余分に獲得する必要があります。

生命維持に必要なエネルギーが少なければ少ないほど、生存に関するリスクは軽減していきます。

ということで、必要でも無いのにエネルギーを食ってしまうような要素は無くしていきましょう、というのが退化であり、それは現状の環境に適応しつつ、最もエネルギー面で効率が良い生き方になります。ということでトータル面での最適化です。

現代の退化

余計な部分を省き、合理化することで最適化された生き方をする、そうした方向性は退化の方向性です。

そう考えると、どんな大人になるかということについて、確率論的に合理的であろう社会の風潮に合わせるようにして進路を選んだりすること自体がある種の退化であるとも考えられます。

下手なリスクを冒さず、他人に提示された合理性の中で「反応」する形で最適化していくというアプローチです。

確かにリスクの面や迷いの面からエネルギーの消費が起こることを避け、エネルギーを温存するということを目的とするのならばそうした退化は良いものなのかもしれません。

しかしながら、一見進化しているように見えるデジタルデバイスでの「口説き」なども、エネルギー温存の面から言えば合理的ですが、結局獲得したいような体感などに臨場感を持つことができません。

だから、いわば使うエネルギーも省エネルギーなら、返ってくる楽しみも低エネルギーということになっていまいます。

温存したエネルギーは進化に使う

退化の方向性を持つ合理化や最適化はすごくわかりやすくて、現状を最適化することで、エネルギーを温存するということです。

例えばトラックの運送で、積み込み作業や走るルートを最適化することで、今までかかっていた時間を短縮することができればそれが合理化という感じにはなります。

しかしそれは、現状の最適化であるため、進化か退化かと言われれば退化です。

長い間同じところで勤め人をしていると、その職場では最適な行動もできるようになりますが、叱られない程度に求められている作業が上手くなるにつれてどんどんエネルギーが温存されていきます。

で、温存されすぎると、逆に暇を感じて「エネルギー浪費のストレス」がやってくる場合もあります。

これは、今自分のやっている行動が、動物としてエネルギー獲得の役には立っていないと感じることで、本能が苦痛を与えてくるというものです。

理屈的にはお金は稼いでいますが、変に緊張しながらサボっていたりすると、「おい、起きて活動時間なんだったら、エネルギーを獲得しにいけよ。起きてるだけでもエネルギーを使ってるんだから、適当なことはするな」という感じの苦痛がやってくるというものです。

エネルギーの温存にはなりながら、「何の役にも立っていない」と感じることが逆に苦痛になるというパラドクスです。

意味なく穴を掘らせて、掘り終わったらその穴をまた埋めさせるという「無益な労働」という拷問もあるくらいです。

で、退化自体が悪いものというわけではありません。

生命現象においても、意味があるから退化が起こっているわけですからね。

しかし、そうしたものは、考え方が後ろ向きです。

今を起点として過去の出来事の中から理屈を取り出してそれを最適化しているに過ぎません。

 

最適化については、それはそれでエネルギーの温存になるので良いのですが、新しい世界は広がっていきません。

できれば温存した分を新しい世界に進むためのエネルギーとして使うべきです。

全ての進化は意図から始まる

全ての進化は意図から始まります。

意図のエネルギーが進化という領域に運んでくれるのです。

海から陸へ進んだ生き物、陸から空に飛び立った生き物、それら全ては「行ってみよう」という意図を最初に持ったはずです。

確率論的な話をすれば、最適化である程度現状のままでも種が繁栄していくという状況になれば、幾つかの「変な存在」を作り出して、他の領域での生きる可能性を作ったほうが種の保存の確率が上がります。

現状の環境が一変すれば全滅だからです。

「まあ現状の最適化はある程度できたことですし、私たちが代表してそろそろ行きますか」

というのがリスクを含めた全体を見た上での合理的な選択です。

といいながら、世間の「テクノロジーを筆頭に、社会は目まぐるしく進化を遂げています」という言葉を聞いた上で、世間をよくよく見渡してみると、ほとんどの方向性が最適化の方向性です。

技術は向上しているのでしょうが、「省エネ」とか、「通信速度向上」とか、結局は現状の最適化にしかすぎない進歩です。

では進化と言っていいほどの方向性はどのようなことになるでしょうか?

厳密に考えてしまうと、そのようなものは海から陸に上がるレベルで、「文字を発明した」とか「電気を発見した」というレベルになってしまいますが、個人レベルで見た場合は、「現状の最適化」以外の方向性ならばどのような方向でも進化になります。

働いたことのない人が働くというのも進化になるでしょう。

そんなに難しいものではありません。

スマートフォンを使ってしか「口説き」ができなかった人が、スマートフォンを置いてリアルな行動に出るというのも一つの進化です。

現状の最適化の方向性を考えてしまうと、どんな文章が良いかとか、どんなタイミングがいいかとか、そうしたことばかりに気が行ってしまいます。

花束を持参していきなりインターホンを押しに行くというのでもいいでしょう。

「今時いきなりそんなことやらないよ。ひかれるよ」

という人たちがいたとして、それはエネルギー温存の方向で考えている人たちです。

「普通の人はそうかもしれないが、私は普通ではない」

そう思った瞬間から、思わぬ意図が発生することがあります。

それは周りが最適化の方向性、退化の方向性を持つ中で、海から陸に上がった「変な存在」と同じような発想です。

そうした人が未来を切り開いていくはずです。

「普通の人はそうかもしれないが、私は普通ではない」

そうつぶやいていると、見えなかったものが見えてくるはずです。

見えてくるに従って、具体的な意図も自動発生するはずです。

合理化や最適化が機械にできる限界

Category:miscellaneous notes 雑記

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