贅沢

贅沢癖は人間の心の奥底にまで及んでいる。余計なもの、過度のものは、彼の魂が最も好んで泳ぐ水であることを、この癖は示している。 曙光 405

贅沢を感じている時、おそらくそこには「我慢」や「妥協」がありません。

贅沢だと感じるレベルもあると思いますが、そのレベルに応じて我慢や妥協、身体的苦しみが少ないはずです。

「たまには贅沢がしたい」

と思う時は、その裏側に積もり積もった我慢があるはずです。

ただ、贅沢と我慢の関係を見ても、そのまま対義的な関係にあるわけではありません。

なぜなら贅沢だと言いつつも、一般的な贅沢に虚無感を感じる瞬間が来るからです。

我慢があったからこそ贅沢だと感じ、その贅沢が続いたら続いたで飽きてきたというような感じになってしまいます。

贅沢だとすら思わなくなる

それどころか、「それが可能な状態」になると、それを贅沢だとすら思わなくなります。

それはおそらく裏側に我慢がないからです。

10年位前は、よく飲み屋に行っていました。元々酒に強く、無類の酒好きに近い感じでした。

その頃は、「もっとお金と時間があれば、もっと飲みに行くだろう」と思っていましたが、結果はその逆で、一切飲まなくなりました。好んで外食もしません。

穏やかさが最高の贅沢

贅沢な毎日」で触れていますが、「不足」を感じなければそれだけで贅沢です。

感情が起こってもそれが再燃することもなく、流れて終わりです。

欲を刺激するようなことを渇望するということは、その刺激がないと不足を感じるということです。

何かの行動を取るにしても、その行動自体に問題があるわけではありません。

その時に感じた感情が過去の記憶として比較の材料となり、現在の不足を支えるものとなる因子を孕んでいるというところが問題です。

それは失敗の記憶として、次なる恐怖心を作るものとなったり、成功の記憶として、執着や渇望というものを作り出していきます。

過去を今に持ってこなければ、過去の記憶に「今に影響を与える力」を与えなければ、比較もなく、不足を感じることもありません。

意識による無駄な不足がない穏やかさ

不足を感じるとしても「寒いなぁ」とか、「喉が渇いたなぁ」くらいで、いわば五感ベースの不快感くらいしかありません。

そういうものは、普段の生活環境ではすぐに解消できるような不快感です。

それ以外の無駄な不足、意識が判断した不足がない、そんな穏やかさが最高の贅沢です。

何となく怒りが生じても、映画を見るように「怒りが生じているシーンが流れている」という感じになっていれば、観客である立ち位置の自分としては、平気でコーラを飲んでポップコーンを食べることができるはずです。

贅沢 曙光 405

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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