贅沢な毎日

昨日の昼のことになりますが、現在要介護状態の養子のうさぎを撫でながらコーヒーを飲みつつ、はっぴぃえんどの「風をあつめて」なんかを聴いていると「すごく贅沢だなぁ」と感じました。

ほとんどたったそれだけのことなのですが、そんなことを書こうと思ったら眠気がして、夕方まで爆睡していまいました。

何も南の島に行ってビーチでのんびりとか、そういった手間のかかることをしなくても、同じくらいの「のんびり感」を感じることができるということは、すごく贅沢です。

そんな贅沢な毎日が続いています。

何かを「必要だ」と思い込んで、「やる気がしない時にやる気がしないことをやる」というような感じが全く無く、それでも世間で「必要だ」とか「こうあるべきだ」とか思われているようなことをしなくても成り立っているという感じです。

こういう贅沢な毎日は、「努力して手に入れるもの」でもなんでもありません。

苦しんだ末に成り立っていると思えば、仮にまた何かの拍子でそんな状態を失った時に「再度苦しまなければならない」と思ってしまいます。

そこで執着が生まれます。

そしてさらにオンとオフのときの比較なんかができて、何かの活動をしている時が苦だと感じるようになるでしょう。

「ふぁ」っと降りてくる

贅沢さは「気付く」というようなものであり、贅沢だと思いこむことでも手に入れるようなものでもありません。

クロスワードパズルなんかをやるとよくわかりますが、ある程度マスが埋まってからでないと気付かない箇所があったりして、ふとした時に「ふぁ」っと、答えがわかってしまう瞬間があります。

その瞬間は思考の先と言えば思考の先なのかもしれませんが、普段頭で段階的に演算的に考えて組み立てていく時となんとなく違います。

眉間に気が集中するような感じで、「ふぁ」っとやってくる感覚です。

だから、贅沢に関しても「思い込む」とか「それっぽいものを見つけてラベリングして確認していく」というようなものとは性質が違うのです。

「自分は不足を感じていない」と不足感に抵抗するような感じで「自分には愛する息子がいる」とかいうような状況証拠を揃えていく必要はありません。

何かになることと何かになろうとすることの違いはそんなところに落ちています。

ただ贅沢であればいいのです。


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