賢者の非人間性

すべてのものを粉砕する賢者の重い足どり― 仏教の歌によると、「犀のように孤独に歩む」― には、時々和解的で穏やかな人間性が必要である。しかもあのいっそうすみやかな足どりや、才気あるあの愛想のよい社交的な言い回し方ばかりでなく、機智や一種の自己嘲笑ばかりでなく、矛盾さえも、世に行われている不合理へと臨機に復帰することさえも必要である。宿命のように転がって進む地均らし機(ローラー)に類似しないためには、道を説こうとする賢者は、自分を繕うために自分の欠陥を使用しなければならない。彼は「私を軽蔑せよ!」ということによって― 不遜な真理の代弁者となる許可を求める。 曙光 469 前半

「賢者の非人間性」で引用されている「犀のように孤独に歩む」については、スッタニパータ蛇の章 「犀の角」をご参照ください。スッタニパータ蛇の章 「犀の角」

一般的には「犀の角のようにただ独り歩め」と表現されますが、個人的には元々犀は群れず単独行動をとるので、「犀のように歩め」という方が的確だと思っています。

非人間性と孤独

賢者の非人間性ということで、「犀のように孤独に歩む」という表現がされていますが、その裏には「人間性」の代表例として孤独を嫌い、群れようとするというモノがあるということになりましょうか。

よく人間は社会的動物であるという表現をして、社会的なのだから群れを欲し、孤独を嫌うのが当然であるということで、それが一種の人間性であるという主張があります。

しかし賢者たるものそうした人間性を当然のものとせず、ある種人間を超えるものとして、孤独を嫌うこと自体の動機をあるがままに見て打ち砕いていこうではありませんか。

非論理性を打ち砕く

さて、人に何かを説明するというのはかなり難しいことです。

特に物で指し示せないようなことになると、相手の持っている固定観念が邪魔をして、うまく伝わらないがあったり、また、相手に今まで類似した観念がない場合でも難しくなります。

そこで、相手が固定観念を持っている場合には、それを打ち砕くことをせねばなりません。

概ね物理的に、そして具体的に示せる分野なら説明しやすいですが、情報的で抽象的な分野は説明しにくい傾向にあります。

正当性の不在

たとえば、「〇〇でもないのに言うな!」というような、反論があった場合には、相手は「〇〇だったら言ってもいい」と思っているはずです。

その「〇〇」に入っているものには、正当性があると思い込んでいるということになります。

社会の中で創設された「社会的な仕組み」の中であれば、それは通用するかもしれません。

例えば株式会社で議決権を持っているのは株主です。基本的なことは取締役が行っていますが、いざとなれば「株主の意志」が強制力を持っているということになります。取締役の選任は株主にしか権利がありません。

そういった仕組みの中では通用しますが、倫理・哲学などでは一切通用しません。

人がルールを決めた枠内での仕組みの話であれば、そんな説得も通用しますが、「人が決めるようなことではないこと」ではそうした説得は通用しないのです。

世界中の人が認めたからといって
正当だという根拠にはならない

そういうわけで、「大学教授でもないのに言うな」とか「お坊さんでもないのに言うな」というのは、全く筋違いです。

では、どうして大学教授ならば言ってもいいのでしょうか?

どうして宗教法人という組織に属していると、言ってもいいのでしょうか?

それらはどこにも正当性がありません。

「大学教授ならば言ってもいい」というのは誰が決めているのでしょうか。誰の承認のもと、それが正当性を持っているのでしょうか?

そして、その承認をするのは「人」か「イメージ」です。イメージは対外的に根拠として出せるものではありません。では、仮に人だとした場合、その「承認をする人」の承認が正当だと決めるのは誰でしょうか?

世界中の人が認めたとしても、「世界中の人が認めたから正当だ」という根拠はありません。

経験と論理

例えばですが、

「人を殺してはいけない」

という命題があったとして、それについて議論が起こった時、

「人を殺したこともないやつが言うな」

というものと

「人を殺した奴が言うな」

というやりとりがあったとします。

これは共に意味のないやりとりです。

しかし世間ではこれと同じ構造で、よく喧嘩が起こっています。

これは、何かを行ったり、その属性になったものだけが「言っていい」という構図です。

先にも示しましたが、それが社会的な仕組みの中であれば多少は通じるのかもしれません。

しかし、やはり何の根拠にもなりません。

「言っていい」というのは、なぜかその経験を持っているものだけが言う権利を持っているという構図です。どうしてそんなことを言おうとするのでしょうか?

それは何か自分には都合があり、相手を説得するということをしなければならないと思っている時です。

命題が倫理・哲学の分野

しかし、命題が倫理・哲学の分野です。

社会での交渉の場合でも、根本にどんな考えを持っているかによって決め事は変わってきます。

しかし、たいていの喧嘩は、自尊心や、固定観念を保持したいというアイツの都合での論争です。

絶対性、絶対的な正当性をもつ命題というのは、立場や経験、解釈に関係なくいつでも、同じになるものです。

そういうわけで、経験の有無や立場は関係ありません。そういった反論は一切論理性がありません。

同じような観念を持ったレベルの人同士なら、説得には使えるかもしれませんが、そんな固定観念はすぐに打ち砕くことができます。

ある固定観念が原因で沸き起こった「感情」によって、論理性がグチャグチャになっているだけです。

ある固定観念があると、それに合致した時には嬉しい感情が、そして合致しなかった時には、怒りや憂いがやってきます。

外界の現象はすべて無属性です。具に分解すれば、視界もタダの光を目がとらえて意識に信号を送っているだけのこと。

それをどんな固定観念に照らし合わせて解釈するかによって、結果である感情の信号が別口で起こるというだけのことです。

ならば、一喜一憂する主たる原因は、それまでに培った固定観念です。特に意識の上での悩みなど、たったそれだけのことです。

賢者の非人間性 曙光 469

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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