諸行無常

メインテーマとしながらも、投稿数の少ない哲学テーマですが、あえて「諸行無常」についてでも書いていこうと思います。

諸行無常の正確な説明、解説というのを期待されるよりも、この諸行無常(しょぎょうむじょう)というラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。

日本において諸行無常という言葉は、平家物語の冒頭にある「諸行無常の響きあり」という部分のイメージが強すぎて、本来の意味での諸行無常を捉えること無く、印象的に「そういえば街も様変わりしたなぁ」とか「諸行無常ゆえ親が死ぬのを受け入れなくてはならない」というような形で捉えられていることがあります。

しかしながらそうした、大まかな期間の経過や情緒的な概念ではなく、諸行無常の肝心要である「瞬間としての今の変化」をベースとし、この理をどう捉えるかというところを哲学的に紐解いていきます。

以下、この諸行無常について、仏教用語として、仏教特有の概念として言葉の意味を考えている部分もありますが、宗教的、主義的なことを議題に上げず、学術的に正確な意味を捉えるのでもなく、諸行無常というこの当然の理を元に、何かを掴み取っていただければと思います。

諸行無常の概要

それではいきなりですが、一般的な諸行無常について、概要として大まかに定義すると、「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」といった感じです。知っている人は知っているような感じですね。

  • 「諸行」⇒因と縁によって生ずる全ての現象
  • 「無常」⇒固定的ではない

ちなみに因縁のうち「因」は直接の原因、「縁」は間接的な環境条件という感じで捉えておいていただけるとわかりやすいかもしれません。

ただ、「行」に関しては、「形成作用」を示すという捉え方もあります。「色受想行識」なんかで考えられるときは、「意志作用」というように捉えられたりしています。

「行」の前後に「触」という言葉が出てくるときもあると思いますが、それらを踏まえて考えた時の「行」については後述しましょう。「意図」と「ゲシュタルト」のような印象で触れていきます。

ひとまず、常に生滅を繰り返しつつ、因と縁によって生ずるすべての現象、というものに対して、「それは何か」ということを把握しています。

でも、そんな一連の流れも、その「何か」についても、固定的なものではないということから、まずは捉えてみましょう。

簡単な定義はこれくらいにして、少しだけ普段に置き換えて進めていきます。

出会った瞬間に別れることは確定している

対象が物であっても、人であっても、経験であっても、状況であっても、その対象がどんなものであっても出会った瞬間に別れることは確定しています。

道ですれ違った人とは会うのが今日が最後かもしれませんし、もしかしたら明日かもしれません。

ただ、そんな人とも初めて会った瞬間に、「いつか来る最後」というものが同時発生しています。

今日と明日で違う人

これはイメージしやすいので、そんな風に表現してみましたが、もう少し深く考えると、今日のその人と、明日のその人は、全く同じではありません。

今日会ったときには、長髪でしたが、明日は短髪になっているかもしれません。

と、そういう変化も変化ですが、さらに細かく言うと一秒前と今では、体の水分含有量も違いますし、昨日と今日では、もし昨夜に何かの本を読んでいたら「昨夜に読んだ本の内容」に影響を受ける前と受けた後という違いがあります。

必ず変化があり、同じではなく「近いもの」

そんな感じで、全く同じものではなく、「何となく近いもの」という感じでしかありません。

そう考えると、どんな人とも次に会うときには「だいたい同じだが少し違う人」と会うことになります。

ということは、同じ人と会っているわけではなく、何となく同じような人とまた新たに出会っていると考えることもできます。

必ず終わりが来る

物事を大きく考えた場合でも、何かの対象と出会った瞬間に「終わり」が訪れることは確定しています。

それは死別というケースでどちらかが先に死ぬという場合もありますし、再会する予定がキャンセルになり、それっきりで結局再会せぬままという場合もあります。

ということは、どんなシーンでもその対象を感じているという場面はそれが最後になる可能性を含んでいます。

物が壊れれば、それでその物とはだいたいお別れです。インテリアとして飾っておいたとしても、「物として使用する」という意味ではお別れです。

大好きな人とも、出会った瞬間に別れることは確定しています。

「それは嫌だ」と思っても、それを変えることはできません。

と、これは大きく考えた場合ですが、先の例のように、同じように見えるものでも「だいたい同じ」であり、全く同じものではありません。

ということは、この瞬間に感じたものも、一瞬先にはもう別物になっているのです。

別物になったということは、自分がとらえた「それ」とは既にお別れしている事になります。

と言っても生きている上では「だいたい」で十分です。蓋然性で成り立っていますから、「何となく同じ」で十分です。特に問題視されることはありません。

ただ、「だいたい同じ」であって、「同じ」ではありません。そして、「同じかどうか?」というところを判断するためには、前後を比較する必要があります。

そして、それには記憶が必要になります。

さらに記憶には記憶の主体が必要です。そして、過去の記憶というモノを現在に引っ張ってくることがなければ比較ということはできません。

形成作用としての「行」

「行」ということで、諸行無常の「諸行の行」について、形成作用としての行、意図とゲシュタルトらへんからのアプローチでお送りしていきます。

因縁による現象を「万物」みたいに捉えるのであれば、諸行無常という言葉も、少し違いますが「諸色無常」なんてな表現になりそうなものです。

それで、詳しい解釈や解説というものは、議論したい人や研究したい人たちだけで盛り上がってくださいと言うかたちで、特に厳密性を考えずに、書いていこうと思います。

人が何かを思ったり考える時、先に何かに触れてそれが何かを捉えるところからスタートするはずです。

そういうわけで、「行」という字から話を進めてみます。

「行」

この字も、ただのモニタの白と黒の光の差です。

この光の差をひとつのまとまりとして「漢字だ」とか「ぎょう、と読む」とか、「漢字の意味としては、行くとか行うとかそのへんだ」とか、そういったことを把握するには、これらをまとまりとして、何かの意味を与えるという必要があります。

漢字を全く知らない外国人としては「おそらく何かの文字である」というくらいにしか思えませんし、動物なら何かしらの模様くらいにしか思わないはずです。植物なら、目がないのでこの光の差すら認識できないでしょう。

音声であっても、いきなり知らない人が、「ぎょ」と言ってきて、10年後に「う」と言ってきた場合、おそらくそれらはつながることがありません。

何かのまとまりとして捉えるということ、ゲシュタルトなんてな表現をされますが、それが無いと目に映っても、目に映るという以外の反応はほとんど起こりえません。

五感で何かを感じて、それは何かということを捉えたところから意図がスタートします。

だからこそ、触れることがなければ、そして、触れたとしてもそれに意味がなければ、その場を流れていくだけなのです。

それに意味がなければというよりも、それを「何か」として捉え、その何かに意味を与えないと、何のきっかけにもならないのです。

ということで、意図が起こり「因」となる手前段階のプロセスのうち、どれかが無くなれば「因」は無くなります。ということは結果は生じません。

諸行

ということで、諸行無常のうちの「諸行」、因縁による全ての現象を「感じる」というか、心が捉えるためには、「五感で対象に触れる」ということや「意識」としての情報が起こらない限りは、何も心に入ってきません。

そして、触れたとしてもそれが「何か」であるという意識の中でのゲシュタルトがなければ、ただ触れた分だけで終わりです。

「因」が「因」であるためには

何かに触れ、それが何かであると捉え、判断し、その何かを解釈し、それに対する思考が起こり、反応としての感情が起こる、という場合の「因」が「因」であるためには、全てのプロセスが成り立っている必要があるのです。

そういうわけで、例えば特に関心がないスポーツの結果がスポーツ新聞に書いてあって、コンビニを出る時に、その成績が目に映っても、喜びも怒りもしないはずです。

ところが自分はそのスポーツに関心があり、応援しているチームがあり、そのチームが負けたということを捉えた場合には、怒り等々何某かの感情が起こるという感じになります。

そういうわけで、生きている限り、何かは目に入り、何かは耳に入り、暑さ寒さは体感し、手足で物に触れ、どこにいてもニオイは感じ、食べるとき、飲む時には味を感じます。

それらはたったそれだけなのですが、意識の上で何かを条件としていくたび、それ以上の反応の要因を作ることになります。

無常

そんなこんなで、今この瞬間の出来事は、今瞬間で終わりであり、滅することでまた生じるという感じになっています。諸行無常の「無常」は、固定的ではなく、「常に変化し、流れている」というような意味になります。

ただ、どの段階であっても今は今です。

ところが、連続性を感じています。

そうして連続性を感じているからこそ、「時間はある」という印象を持っているはずです。

生滅

生滅を考えた時に、例えば、呼吸にしても息を吸って肺がいっぱいになったから、身体は吐こうと思い、吐いたということも考えられますが、諸行無常なのだから、そんな限定をするまでもなく、瞬間的に全てが生じ、滅し、また生じという感じになっているはずです。

ラッセルの世界五分前仮説なんかでもわかりやすいですが、世界のすべてが5分前に生じたという場合でも反駁できないはずです。

なお参考までに世界五分前仮説は、5分前に、環境を含めたすべての状況や自分の記憶、世界中のみんなの記憶などが発生したと仮定した場合という感じです。

これは5分前どころか、1秒前でも論理を覆すことはできません。

記憶の連続性

で、物事はそれが変化しないこと、固定的であることを求めたとしても、瞬間ごとに「だいたい同じ」であって、全く同じ状態というものは自分自身でも叶ったことはありません。

わが事で考えてみても、同じような姿勢をしていても、「同じような」というだけで全く同じということにはなりませんし、同じ気候条件というのもありません。

まして「同じ時間」ということは、「時間の存在」を認めているならなおさら論理上不可能です。

常連さん、お待たせしました。ここでアイツこと自我が登場します。

先ほど、「だいたい同じ」であって、「同じ」ではない、「同じかどうか?」というところを判断するためには、前後を比較する必要があり、それには記憶が必要になり、記憶には記憶の主体が必要で、過去の記憶を現在に引っ張ってくることがなければ比較ということはできないと言うようなことを書きました。

そんな感じで、諸行無常自体はただの事実なのですが、「あの人は、こんな人だと思っていたのに」というようなことをアイツがやりだすのです。

そうしたことを思い、煩うには、記憶と印象、時差的な比較が必要になります。

諸行無常は嫌だ

諸行無常なのは、別に好き嫌いにかかわらず、時間の解釈がどうあれ、変えることができるものではありません。

ただ、そうなだけ、という感じです。

そこで、厄介なのは、「諸行無常は嫌だ」というケースです。

「君と僕との愛は永遠さ」

という場合ですね。

しかしながら、出会った瞬間に別れることは確定しています。

それをアイツが

「嫌だ!」

と叫び出すわけです。

そして厳密に言えば、今誰かと会っていても、一秒後には別の人になっているはずです。

今のその人とはこの瞬間に出会い、別れているということすらできます。

そこで出てくるのが記憶の連続性です。

ある対象を捉えた時、その対象に対する印象ができます。

その印象を快いと思うか、不快と思うかによって、次回の反応が変わります。

本当はその対象との接触からまとまりの形成、印象の形成から感情までのプロセスは一瞬で生じ一瞬で終わっています。

ところが、そこで生存本能としての判断基準をつくります。

身の危険を回避することを前提に、汎用性の高い法則をもちたがるからです。

不快であれば、「不快だから避けよう」、快ければ「もう一度、できればずっと」というふうに。

そんな感じで、記憶を作り、連続性から時間を作り、時間軸の中での比較対象を作り、その瞬間の現象に意味を与え、執着を形成していきます。

全ては固定的ではなく、ただ、その場で起こりその場で流れていく現象に解釈を作り、その記憶の連続性の中から執着を作っていきます。

現象は無属性

諸行無常ということで、すべてはその瞬間の現状、その瞬間の状態、もっと言えば情報の状態です。

情報と言っても、数値や言語で示すような具体的なものではなく、五感やその瞬間に働いている意識の情報という感じで、その情報の状態が全てです。

そして、その状態を認識する働きが「心」です。

仮に何も考えていなくても、例えば立っていれば足の裏には何某かの刺激があるはずです。視覚障害がなく目を開けていれば何かは見えているでしょう。耳をふさいだとしても、心音か何かは聞こえるはずです。

そんな五感の刺激を常に心は受け取っています。

そしてそれらには善悪もクソもありません。無属性です。

「眩しくて不快だなぁ」という快さや不快という属性はありますが、「どちらのほうが正しいか」というような基準はありません。

五感に限って言えば、眩しいという視覚というよりも触覚的な不快感は別として、何かを見たとしてもただそれが見えているだけです。

その「それ」に意味を与え、何某かの思考が働き、その思考故の感情に煩いを感じること、それが無駄な煩いです。

アイツこと自我は敵なのか?

五感からの情報、諸行無常ということなので、その瞬間の情報状態に対する五感の情報以上に、対象に属性を与え比較を始めだすと煩いの元となります。

ただ、体のことを考えた場合、自分の意志とは裏腹に勝手に喉は渇きます。

その時には勝手に意図として「水を飲もう」という一種の「因」が発生します。

「水を飲もう」というのは漠然とした意図であって、厳密には「水分を摂ろう」であり、その裏には、この喉の渇きという不快感を解消したいというものがあるはずです。

それをさらに深く考えた場合は、水分を摂取したいという欲であり、喉の渇きという不快感に対する怒りと考えることができます。

だから、

自分か他人かと言えば自分の身体ですが、ある意味自分で考えたゆえの意図ではありません。

でも、意図は自動発生しました。

そして現象が展開します。

その際に、視覚や触覚という対象に「触れる」というところ、そしてそれが「水である」という認識、「この『水』を飲もう」という判断と決断、そして実際に飲むという行動というプロセスが無いと、喉の渇きは癒えません。

諸行無常に対する抗いともとれる、煩いのプロセスはどうあがいても、こうして現実の展開の際には辿らざるを得ません。

そういうわけで、「煩いの元となるアイツを滅ぼす」といってもアイツは敵というわけでもなく、生きている限り自分の一部として一体化せざるをえないのです。

諸行の行をもう一度

ここで諸行無常のうち、諸行の行をもう一度考えてみましょう。

「因縁による全ての現象」

と考えた場合に、大前提が忘れられていることがよくあります。

この心が機能しないとすれば、あのプロセスが作用しないとすれば、現象はあってもなくても同じで、この心としては無いのと同じことになるということです。

五感という入口が無ければ、何が起こっても無いのと同じです。

そして客観的にあるといくら力説されようが、この内側、この心としては何も感じないのだから無いのと同じです。

ということは諸行無常の諸行が因縁によるすべての現象、ということであっても、あの認識プロセスとそれを受け取る働きである心が無ければ、「現象」というものは、仮に客観的にあったとしても無いのと同じことです。

ということは、現象はあのプロセスによって、そしてこの心によってある種「作り出されている」ということです。

しかしながら、その「作り出されたもの」は、この瞬間の体感とともに、瞬時に滅し、また作り出されています。

意識はオリジナルではない

そして、その作り出すプロセスにおいて、意識が介入しています。意識が介入しながら、心が受け取っています。

しかしながら、意識はオリジナルではありません。

誰かから教えてもらったり、嫌でも情報として入ってきたような事柄、つまり体験の中の情報や本能に組み込まれた情報などが集合し塊となり、自動で演算しているに過ぎません。

そして、ある現象を捉える時、例えば複数人が同じような経験をしていても、各々受け取るものは必ず異なるはずです。

ということは作り出されるものも異なります。

そして、それらは無常ゆえ、同じものが二度と作り出されることもないのです。

全ては移ろいでいく、ただそれだけ

で、諸行無常の肝心要は、「全ては移ろいでいく」ただそれだけです。諸行無常は、仏教用語として、仏教としての「主義」や「信仰的なもの」とは一切関係なく、ただ当然の理であり、人の考えにかかわらず変わることのない法則へのラベリングとして考えることができます。

同じ人が同じようなことをしても、同じ経験は二度とできません。

何をやるにしても、初めてと二回目では、必ず印象が異なるというところから、ずっと同じような状況ということはありえないというところはもちろん、瞬間的に全てが移ろいでいく、ということがただ当然の理としてあるだけです。

執着しようにもできない

諸行無常が示すように、全ての現象は固定的ではなく移ろいでいく朧気な現象にしか過ぎないので、執着しようにもできないはずですが、そうした理を頭で理解しながらも、どうしても執着に纏わりつかれ、煩いを起こしてしまう場合があります。

その原因は、現象を捉える際のプロセスにおける意識の介入です。

記憶の印象による過去との比較

何事も、初めてのことでその背景などを全く知らなければ、素直に捉えることができそうなものですが、大人になればなるほど、知識が増えれば増えるほど、純粋な感覚は失われ、欠点や矛盾、合理性なども目につくようになります。

その場の現象は、その場の現象限りのはずで、その場で起こった現象に何かの意味を与えなくても、その場で終わるはずなのですが、「今後のために」という記憶づくり、「かつてはこうだった」という過去との比較、そうした記憶の印象を発端とした意識の働きが、必要以上に現象に意味を与え、無駄な感情や無駄な次の因たる「意図」を作っていきます。

少なくとも、その場の現象はその場限り、その場で起こった思考や感情も、その場に置いていくという感じでやり過ごしましょう。

諸行無常を体感し、その場の現象はその場限りで執着しようにもできないということを体感すると、そのうち、幸せは加点方式ではなく、本来の100点にくっついた無駄な色眼鏡の「削ぎ落とし方式」であり、条件化こそが煩いのボスであったことがストンと落ちるかもしれません。

ただアイツは、無邪気にあなたのことを思い、様々な条件を作っていきました。

小学生くらいの子供が、「いちまんえんさつ」と書いた紙を作ってプレゼントしてくれていた、という感じです。

お父さん、もしくはお母さんが喜んでくれるだろうと思い、色々と知恵を絞ってプレゼントしてくれたという感じです。

そんなアイツをそっと抱き上げて、「ありがとう」と言って、なでなでしてあげましょう。


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