論拠としての気分

昔までは、約束の時間に1分でも遅刻する人を嫌っていました。

完璧主義というわけではないのですが、そういう人がどういう神経をしているのかわかりませんでした。そして、盗人にも三分の理ということで、どういうことか真剣に考えたことがあります。

すると訳を聞くと「楽しみに来ているのに、そういう細かいことを言われると気分が台無しになる」というものでした。

また、「仕事や遊びの局面で、最高のパフォーマンスを出したい」というものでした。

「相手の都合はお構いなしかい」

ということになりますが、これらの「盗人にも三分の理」を真剣に考えた結果、相手の多少の誤差は気にならなくなりました。が、やはり自分は必ず間に合うように行きます。

ただ、どう考えてもやはり言いたくなるのは、「それは遅れた理由にならない」です。

平気で3時間遅刻

以前、20歳くらいの時、ライブ会場を借り切ってイベントをしたことがあります。その時の共演者ですが、平気で3時間遅刻してきました。もうその人の出番は終わった頃にやってきました。

リハーサルが終わりそうな頃になってもやってこないので、その人の相方が電話していたようですが、一向に電話には出ません。

やっと出たと思ったら「すまん寝てたわ」と言われたそうです。

出番まではまだ時間はあります。住んでいる場所から言ってなんとか間に合いそうな感じがしました。

ところが一向にやってきません。結局予定集合時間より3時間遅れてノコノコとやってきました。

相方の方がキレました。

もちろん「今まで何をしていたのか」、というような点です。

答えは「風呂に入っていた」です。

1分の遅刻にも敏感だった僕はキレてしまいました。そして、イベントの損害補填として賠償金を払ってもらいました(その人抜きで、イベント参加者みんなで飲みに行きました、つまりそれくらいの額です)。

今までどうやって生きてきたのか?

当時はもちろんブチギレましたが、今思い返すと、そういうタイプの人は今までどうやって生きてきたのが、という疑問が残ります。

何時間も平気で遅刻するという習慣のまま、いままでトラブルなどは無かったのか、だれも教育はしなかったのかという点です。

同い年ですから、当時20歳です。少なく見積もっても15年くらいは誰かに叱られてきたはずです。親御さんもそういうタイプなのかもしれませんが、学校などで必ず説教されてきたはずです。どうしてそれでも未だに続けていられるのか不思議です。

本当にどういう神経回路なのか、脳の構造はどうなっているのか気になります。

しかしそんな人にも友達がいないのかというと、そうでもないというところがまた不思議です。僕はその手の人とは、その人がいくら才能があろうが、遊びも取引もしませんが、そういう人でもなんとか生きています。

ここから分かることは、そんな人になってはいけないものの、そんな人でも世の中で生きていけているという事実です。

論拠としての気分 曙光 28


世の中には平気で遅刻したりする人がたまにいます。僕としては信じられませんが、いくら世の中が変化していこうが、未だにそうした人たちがいるようで、その様子が耳に入ってきます。それら人たちのその行為は「その時間を無かったものとして扱う」ということです。約束の時間にこないということは、その時間に来ていた人たちの待ち時間というものをまるで無かったかのように扱っているということになります。

その時間を無かったものとして扱う人たち

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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