誰のために真理は存在するか

今までは、誤謬というものは慰めになる力であった。現在人々は、認識された真理に同じ効果を期待して、いささか長い間すでに待ち受けている。真理が他ならぬことを―慰めることを―果たすことができないとすれば、どうだろうか? 曙光 424 前半抜粋

ニーチェには残念ですが、真理は、誰のために存在するという性質のものではありません。「○○のため」に関連される命題は、効用や効用への期待であって、純化されたものではありません。

慰めへの期待、ということは「慰められなければならない」ということになりますが、不安から安心へ、というような方向で考えてみましょう。

慰めへの期待 不安から安心への期待

楽しいことが起こるとしばし不安を忘れることができる事ができます。もう少し細かく言うと、楽しいことが起こっていると頭が判断して、楽しいという感情が起こって、それを心が捉えている状態ですね。

しかし、その状況が去るとまた不安がやってきます。慰めへの期待、というのはこの繰り返す不安感を何とかしてくれ、ということで、何とかしてくれる存在を期待し、それに好かれるように努力するといったトンチンカンを生み出しました。

それはすごい存在に頼ろう、すごい人についていこう、という宗教的なことだけではありません。

例えば慰められようとして、パートナーやペットにすがろうとするようなことも同じことです。構図としてはあまり変わりません。ただ、そんな相手も、ずっと同じ態度をとってくれる可能性は不安定な上に、いつか別れることになります。生きている時に別れるか、どちらかが先に死んでしまいます。

こうして、別れてしまうことは確実ですから、それがひとつの「真理」なのですが、その真理は、何か慰めになるでしょうか。

相手が嫌いな人なら、「いつか別れることができる」という真理は慰めになるかもしれませんが、好き嫌い関係なく「いつか別れは来る」ということになります。

楽しいことで一瞬不安を忘れても、またやってくるということは根本解決にはなっていないということになります。

誰かにすがってもその相手に好かれる努力を継続しなければならないのなら、その努力が苦しみです。嫌われるかもしれないという不安感がついてまわります。

不安感を消すために好かれようとしているのにそれが原因で不安感が募ります。それでは何のためにしているのかわかりません。

誰のために真理は存在するか 曙光 424


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