観想的な生活の由来

ふっと思うことを「観る」というか観察することはいいですが、一歩間違えればそこに何かを結びつけようとします。

そういう癖は太古の昔であれば原始的宗教と言われるもののように、自分たちが把握できない対象についての畏怖から想起されたと思いますが、現代では、ありふれた情報によって「つじつまを合わせよう」とするアイツ働きによってそれは完成されます。

「観想的な生活の由来」ということで、観想という言葉などから見ていきましょう。

観想という言葉

観想という言葉は、仏教的、神学的、古代ギリシャ的な分類によって言葉としてはさまざまな取扱いをされます。しかし言葉にとらわれてはいけません。

意図的に娯楽から遠ざかるというような解釈もあるようですが、その裏には意図的に娯楽から遠ざけないと、できないというような、「本当は娯楽を楽しみたいけど」という無理があります。

そういうこともしてみてもいいですが、ただ単に「欲」が抑圧されてしまうだけかもしれません。

一回やってみて、どんな気持ちが起こるかを観察することはいいですが、「ただ単に欲が抑圧されてしまうだけ」といった、そういう落とし穴には気をつけたほうがいいかもしれません。

「やりたい」という衝動

いっそ逆に、欲を抑圧せずに、思ったことを思いっきりやるとか散財してみるというのもいいかもしれません。普通の神経では、「やるな」と禁止されたことは抗いたくなります(カリギュラ効果ですね)。

誰になんと言われようと、実感しなければ気持ちを押し込めるだけで、後々爆発する可能性があります。

テキストの受け売りで「そういうことはしてはいけない」というと、逆にどういう現象が起こっているか、自分でつかむチャンスも奪い、また、抑圧されたエネルギーを溜め込むことにもなりかねません。

どんどんやってみたほうがいい

取り返しのつくことであれば、どんどんやってみたほうがいいと思います。その時に、どういう現象が起こっていて、自分の気持ちは瞬間瞬間にどのように変化していくのか、ということを観察すればいいだけです。

ほとんどのことは取り返しのつくことですからどんどんやりましょう。

その時に、自然に「やりたい」という衝動が消えていけば、それでいいのではないでしょうか。

そのときはすごい虚しさがやってくるかもしれません。

何かを「やりたい」と思った、

で、やってみたら「え、これだけ?じゃあはじめからいらないかも」というようなことが起こるかもしれませんね。

基本的に生存本能によって発生

あくまで「やりたい」という衝動によって意図されて起こっています。ただその衝動は、自己発生しているものの、基本的に生存本能によって発生しています。

傍から見れば自発的に起こっているように見えますが、自分に組み込まれた遺伝子による衝動ばかりです。

衝動が社会的フィルターにかけられただけ

社会的なように見えて、それはその衝動が社会的フィルターにかけられただけのこと。ただただ、やらされているだけです。そのことに気づいたとき、すべてが「苦」だということがズドンとわかります。

それがわかってしまえばこちらのものです。

観想的な生活の由来 曙光 42

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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