若いうち 改

僕は「夢」という言葉が苦手です。睡眠中の夢は大好きですが、「はみだした目標」的な方の夢という言葉には寒気がします。昔からです。若者に「夢を持て!」と義務教育と体育会系はよく言いますが、「一生たまに遊んで、あとはほとんど寝て暮らす」ということに近いようなことを「夢」と定めると「ふざけるな」と叱ってきます。でも現実にこういうようなことを思っている人は多いのではないでしょうか。

たいてい「社会に役立つ」とか「みんなに憧れられるような存在」とかいう類のものか最低限「職業」として認知されている、もしくは推定できる範囲のものを答えとして用意しなければキレてくるわけですが、もっとひどいのは夜の商売の大義名分が「夢を与える」というものです。そんなものは夢でもなんでもないような気しますね。もちろん他人事ですので、特になんとも思いませんが。

これらのものはすべからく、他人に依存した形の人生になってしまいます。よく「人はひとりでは生きられない」と言います。が、社会学的にはそうかもしれませんが、自分の中に数人の操縦士がいるわけでもなし、一人でしか生きていません。道徳の時間にこのような反駁を行ったのですが、夜遅くまで「相談室」に閉じ込められました。

道徳の時間というものは非常に不思議なものです。

一応、義務教育では世の中で一押しされている「倫理学」が題材に使われますが、大学などでは、一つの考え方にしか過ぎないと教えらます。じゃあ義務教育のあれはなんだったのでしょうか。ということにもなりかねない点が一点。もう一つは、道徳の教鞭をとっている人が宗教団体などに属していて別の考え方を持っていた場合、教科書と相反してしまうケースもあるでしょう。そういう時、非常に苦しくなるのではないでしょうか。

なお、中学生になってからは、食事の時に「いただきます」は発しても「合掌」をあえてしませんでした。指摘された僕は、「なぜ公務員が仏式を強制するのですか?」と言い返していました。「合掌は文化であって宗教的形式ではない」という政治家のような答弁がありましたが、合掌のルーツを問いただして、結局論駁してしまいました。

荒くれ者は究極的に警察を呼べば何とかなりますが、この手の中学生は非常にやりにくかったと思います。

目標的なものを定めてもいいですが、定めて苦しくなってしまうならやめておいたほうがいいでしょう。そんなことより感情の指針を大切にしたほうがよっぽどいいでしょう。

どうせ定めるならゲームのようにしてしまうことです。節目をクリアしてくことに喜びを感じれるのなら、それはそれで構いません。ひとつ気をつけたいのは、「他人のためにやっていないか」ということです。

そこに他人の評価や態度を期待すると、純化されません。たいてい自分に嘘をつくことになります。相手の気分は相手の責任です。自分は関係あるようで関係ありません。

夢という言葉に寒気がするには思いつく限りいくつかの理由があります。

ひとつは、実現が困難という属性を設定してしまっていること。

もうひとつは、自分の気持ちより他人を意識してしまいやすいこと。

さらにもうひとつは、今に集中しにくくなること。

もっというと単なる渇望感かもしれませんね。ワクワクしているならそれはそれで構いませんが。

「夢」を語る人がいたら、一度そんなことをつっこんでみてください。もちろんつっこんでもつっこまなくてもいいですが。

過去記事⇒若いうち


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