舞台の道徳について

舞台、狭義には演劇を観ることには特にお金をかけたことはありません。

出演者が同級生、という誼で何度か行ったことがありますが、やはり体質的に合いません。悲劇対喜劇という項目で少し引用しましたが、かつて演劇には「感情の解放」という目的があったのでしょう。喜劇なら笑いに、悲劇なら悲しみや恐怖心をぐっと捉えることによって、感情移入による心的エネルギーの解放という役割があるような気がしますね。

ところが、ことに演劇を見せられると、そこで感じるのは悪寒しかありません。上手い下手というよりも、演劇そのものがもっている、日常とは異なった世界観に多大なる違和感を感じてしまうのが正直な感想です。新喜劇のような喜劇ならいいのですが、シリアスさを出された時のあの嗚咽感はたまりません。喜劇を楽しむ前に、悲劇で悲しむ前に、「今すぐここから抜けだしたい」という衝動が起こります。

舞台で繰り広げられる道徳的説教

さらに、その「シリアスな場面」の内容が、人生哲学を説くような場面の時、嗚咽感はヒートアップします。

それがハムレットなら許せますが、創作された深みのない「テレビでよく使われそうな体育会系的哲学」ならば困りモノです。「私は非常に出来がいい」と思い込んでいるおばさんが、説くような道徳です。この内容の質というものは、脚本を書いている人のレベルによるでしょう。テクニックにばかり走り、何かの原典があるのならその原典の読解力や解釈力、創作ならば元の思考力などに問題のある浅い人生哲学です。

なぜ演劇で表現する必要があるのか

五感のいずれかで認識できる方法であれば、様々な情報入力の入り口がありますから、一つの思考や感情などを表現する場合でも多様な表現方法があります。適した単語が見つからないような、たった一つの非言語的な感情を表現するために数百ページでストーリーや論理を組み立てるのもひとつの手法です。

そこで、どうして演劇で表現しているのかということを聞いてみたいと思っています。特に原作があって、それを演劇でやるのはどうしてなのか、ということがいつも疑問です。

たいてい映画や演劇にされたものよりも、原作の漫画や小説のほうが面白いのはなぜでしょうか。

やって楽しいだけならカラオケのように自分たちでやっていればいいことです。「歌ってみた、踊ってみた」や、安物のカバー作品と同じです。特に原作をいかに消化しているかということが問題になります。

ストーリーの上っ面だけしか追っていない場合は、表現方法を変えた場合、原作が持っている「伝えたかった非言語的要素」を潰してしまうかもしれません。優れたカバー作品のように、カバーをしている人のオリジナルと錯覚するほどの作品ならそれは結構ですが、芸術の中の娯楽的要素、娯楽の中の芸術的要素があるにしろ、それは芸術なのか、それとも娯楽なのか、よくわかりません。何のためにやっているのかもよくわかりません。その上に安易な道徳を取り扱うなど、さらに奇妙に思えます。

ひとまずは、「就職しないこと」や「群れるため」の口実、「有名になりたい」「自分は芸術的文化人だ」という気持ちの踏み台として、観客を利用しようとしてはいけません。と言いつつも、演劇を観に行くことはもう無いでしょう。ですので、関係のないことです。

舞台の道徳について 曙光 240


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