自然における目的

偏見のない探求者として、最下級の生物の眼および眼の形態の歴史を追い、目が徐々に発達してゆくその全体を証明する者は、見るということは、眼の発生のときの意図であったのではなく、むしろ偶然が器官をまとめたとき姿を現わした、という大きな結論に到達せざるを得ない。たったひとつのそのような例ではあるが、われわれは「目的」という迷いの夢から覚めるのである。 曙光 122

ご無沙汰しております。なかなか更新のタイミングがなく、やや停滞気味ですが、元気にしています。

「目的」という迷いの夢というのが興味深い箇所ですね。

さて、引用はさておき、自然における目的について書いていきましょう。

目標や目的を定めろ

「目標や目的を定めろ」とさんざん義務教育などで説かれた結果、目的というものが必ずある、ということを盲目的に認めているという錯覚がたくさん起こります。

そして、それが形而上学的になった時、なにかつかみどころのない事柄に突入するため、「自分にはわからない、なにかすごい目的がある」と、決めてしまいがちです。

自然は自然のまま

しかし自然は自然のままであって、目的もクソもありません。

「○○のため」という謳い文句があれば、何でも意見・主張を通せると思っているのがまだまだアイツの内にいるが故の錯覚です。

ただその瞬間にその状態であって、ある方法に進もうとするエネルギーというか関数というか、一種の意図的なプログラムのようなものが、「その状態」を今作り、そしてそれが次の状態への原因になっている、というようなことだけのお話で、それに第三者の意図のようなものをくっつけるのはただの妄想の関連思考です。

「安定」へと向かう方向

河川を見ればよく分かるはずです。

ただ、物理的にそのような方向が「安定」へと向かう方向だからそうなっているだけで、川の神様の意図ではありません。

それは自然のままのただの方向性、それには遺伝レベルの生存本能すら含まれていますが、そんなことを思ってしまうのは、それを意識という次元で解釈しようとした時に、「何かの目的がある」と、まず無駄に疑問を抱くように設定され、そして確認が取れないことを妄想で補っているという、まさにアイツの性質そのものにやられている状態です。

物事を純化して考える、シンプルに考えていけば、その他はオマケ、ファンタジー程度だと気づくはずですが、ふとした時にそういった考えが意識を汚染します。

その汚染に気づかない状態、それが迷いです。

自然における目的 曙光 122


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