人間は一般に、所有するためにのみ行為するようにみえる。少なくとも、一切の過去の行為をあたかもわれわれがそれによって何かを所有しているかのように見なす言語は、この考えを暗示している(「私は語った、戦った、勝った」ということは、私は今、私の言葉、戦い、勝利を所有している、ということである)。これとともに人間は何と貪欲に見えることだろう!過去さえわが身からもぎ離そうとせず、まさにそれをやはり相変わらず持とうとするのだ! 曙光 281
外国人から見ると、日本語は主語を省略しすぎだということをいいますが、主語を抜いたほうが本来は正しい表現になります。
厳密に言えば、「私は膝を打ったので、膝が痛い」よりも「膝が何かに当たったから『痛み』」のほうが的確であり、厳密さを追求すれば、主語を抜いた「痛い」よりも「痛み」の方がより的確になります。
「痛い」は「誰が?」という質問ができます。その答えは「私」になります。
では、私とは何ですか?
社会でのやりとりや日常会話など相手との意志の交換であれば、関係性の明確化のために主語があってもいいですが、西洋文化のそれは実在論と「責任の明確化」が根底にありますから、自分には適用してはいけません。
主語を抜くことと社会での蓋然性
自分と相手との関連性を、関係性の領域で外部に表出する際は、かまいませんが、それも本来は虚像です。虚像ですが、なくてあるようなものです。つまり空(くう)であっても働きが生まれるという構造があったりするということになります。
その際に、主語を抜くと時に相手には伝わりません。しかし、だからといって、主語がないとおかしいというのは早急です。自我ありきの主語であり、本来は主語というものは存在しません。
社会で哲学を持ち出すと、何一つ決めることができません。なぜなら大半の人は時間の定義も明確にできていないのだから、「8時に集合です」といっても、「8時とは一体何なのか?」という議論になってしまいます。
社会では物事は蓋然性だけで決められています。そこには何の厳密性もありません。確定しているようで、「おそらくそうだろう」という揺れたような印象だけで決まっていきます。だからこそ思考よりも感情が優先されます。
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特に誰かに持っていかれるわけでもないのに、どうして記憶を筆頭に何かにつけて所有しているのは「私だ」と思いたがるのでしょうか。
いずれ死んでしまえば、誰かに持って行かれようが、どちらにしても所有はできません。
それなのに頑なに所有しようとするのはなぜでしょうか。
主語を抜きつつより純化して、五感や意識からの信号をただの信号だと観察してみましょう。
自我は一切を持とうとする 曙光 281
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