自我はどこでおしまいか?

大ていの人々は、自分たちが知っている事柄を引き立てるものである。まるで、知っていればそれがすでに自分の所有物になるかのようである。自我感情の所有欲には切りがない。 曙光 285 前半

自我は関連性と言うもので成り立っていますから、というような話を先日、「自我は一切を持とうとする」というところで触れたどころか何度も何度も言っているような気がしますが、ニーチェは、アフォリズム形式、短文の寄せ集めが大好きなので、どうしても同じような事柄が何度も出てきます。

なぜこのように崇高なのだろう!」の直後に「なぜこのように誇り高いのだろう!」ですから困りモノですね。

自我の所有欲

引用の自我の所有欲、「まるで、知っていればそれがすでに自分の所有物になるかのようである」というような事例は、まさに「知り合いにも持っている人がいます」の優美さのない人であり、「それがどうした」の一言で終わってしまいます。

「知っていれば、それが自分のものになる」ということと同様に、本を買うだけで読んだような気になったり、自分の能力が上がったように勘違いする人がいます。

タンスの肥やしならぬ本棚の肥やしになるだけなのに、その本を所有することで己の能力が向上したと錯覚するような人たちです。

本のレビューを読んだだけで全文がわかったような気になる人も同じようなものですが、内容に触れているだけまだマシかもしれません。

自我は生存本能としての衝動を発端としながら、所詮分離の上での関係性・関連性で成り立っています。

それでは自我の所有欲はどこでおしまいか?

所有欲というからには所有の主体と客体があります。つまり所有者と所有の対象となるものです。

欲とは所詮不足を感じた上での不足を埋めようという感情にしか過ぎません。対象が自分の幸せ感や安穏のために不足しているという錯覚であり、その錯覚を発端とした感情です。

では所有欲とは何なのか?

それはなぜ所有したいと思うのかをよくよく考えていくと、自然と終わりが見えてきます。

抑制しようとしてはいけません。

所有とは一体どういうことで、どうして所有したいと思うのか、を徹底して考えつつもその時の心のプロセスを眺めてみることです。

その上で、今この瞬間に意識を向け続け、心の認識を暴いてみましょう。自我を実体とせずに錯覚と見破るとその答えが体感でつかめるかもしれません。

いわゆる「自我」

自我はどこでおしまいか? 曙光 285


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