自主

自主(その最も僅かな服用量では「自由の思想」と呼ばれる)とは、権力を好む者が結局受け入れる諦めの形式である。― 支配することの出来るものを長いこと求めて、自分以外の何ものをも見出さなかった、その彼が。 曙光 242

自主は自主以外の用途で使われることがあります。プライドを保ったまま服従するために、自己説得を行う場合と、「任意という名の強制」を支配者側がこれもプライドを保ったまま、美しく見えるように、また、法の穴をくぐり抜けるために用います。

自主的にという場合には、本当に自分発端で行うものです。しかし「自主的に動け」とか「自主的に努力しろ」とか「自主的に決めろ」ということを他人が言っているのであれば、それは本当の自主ではなく、単なる任意という名の強制にしかすぎません。

任意という名の強制

「任意という名の強制」の最たる例は、任意研修、任意会議、任意訓練などです。また労使間で任意参加がつくものであれば、ほとんどが任意という名の強制であり、労働組合への参加も任意と言いながら、団体で圧力をかけ、「そんな態度をとっていたら仕事を教えてもらえない」と、新入社員を脅すという事例が実際にありました。

過労死の例があるようなブラック企業は、「任意参加なので労働時間に換算されない」という言い訳が大好きです。「あくまで自主的に参加した」とか、「自主的な選択のもと勝手にやった」という言い訳をします。

そこに参加しなければペナルティがあるようなものでも、そのペナルティの性質が、「任意での評価での優劣」や「転勤」など、周りが突っ込めなさそうなポイントを使って、それでの評価に響くと想像させ、または実際にそう低評価などをつけることによって、実質上コントロールし、任意という名の強制を行っていきます。

過労死レベルのブラック企業に限らず、これは会社などではよくあります。「自主」という言葉をつければ何か免罪符的な効果があると思っている人がいますが、それが紛争になれば通じないということも十分にありえます。

大企業でよくある自爆

大企業では、大企業の直接の利益のためではなく、OB・OG達やオーナーの家族などが架空に近い形で経営する会社の商品を「売ってこい」という名目で、実質上従業員に買わせることがよくあります。

たいていは土産物の通販のような商品です。実際にそんなものをいつどこで営業すればいいのかわからない、営業するだけの時間を確保出来ずに、仮に残業でもすれば怒られるのに、「いつどこで誰に売ればいいのかわからないような物」を「売ってこい」と言います。

単価は数千円ですが、それを仮に売ったところで、営業費用を加味すればいくらの利益になるのか、どころか確実に赤字です。

普通に営業活動をしたならば売っても赤字な上に、そんなものを人に贈ったら贈った人自身の評価が下がってしまうような商品を「ギフト商品」などといって自爆させようとします。

贈る者の恥ずかしさ

それは意図的には、従業員の賃金から、そういう人たちにお金を間接的に献上するためです。自爆営業という売買を通じた数千円の掠め取り搾取であり、自主的と言いながらそこには任意という言葉はありません。営業要員として配置されているわけでもないのに、そうした商品の売上状況を営業成績として、人事評価に響かせようとしています。

そんな搾取団体に属している人は、いったい何がしたいのでしょうか。生きていて恥ずかしくないのか気になります。

生きていて恥ずかしいからそれを誤魔化すために、吸い上げたお金でゴルフや夜の店に行って騒ぐ心を落ち着けているはずです。仮に息子や娘の結婚式でその仕事内容と、業務実態をVTRで流されても恥ずかしくないような仕事をしましょう。

自主 曙光 242

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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