罰する正義

「あなたの為を思って言っている」

という場面がよくありますが、99%くらいは嘘で、発言側の見栄や「恥をかきたくない」という恐怖心が発端で、そういう言葉を発しています。

そんなことは中学生にでもなれば分かることのはずですが、その発言者の人は自分も中学生を経験しているはずなのに、よほど鈍感な中学生時代を過ごしたのか、どうもそういう嘘をつきます。

もちろん嘘と言っても、本心も数%も入っているとは思います。

ただ、純度100%で相手を思い、説教するのはそれ相応の人くらいです。せめて菩薩レベルでしょう。

まれにそういう人がいますから、一概にすべて嘘だとは言いませんが大体は嘘です。

何かしら自己都合を押し付けるために一種の罰を与える時の正義としての大義名分として持ち出されるのが、「君のためを思って」というフレーズです。

関係を変に強固なものにしているからこそ

こうしたことを巻き起こしてしまう要因は、親と子、教師と生徒、会社と従業員というような関係を変に強固なものにしてしまっているからではないでしょうか。

いわばアイツこと自我の特性のひとつである関連思考です。

子供に何かあれば親や保護者の責任、「どんな教育をしているんだ」という流れがあります。

会社でもいざというクレーム時に「どんな社員教育をしているんだ」という流れがあります。

そうしたものは、よくよく見てみると完全におかしいはずです。

その人の人格を形成しているのは記憶ですが、すべての記憶について保護者や上司といった特定の人達のみで構成されているわけもありません。

派生する関係性は関係ない

子供である少年か少女と誰かの間でトラブルがあったとすれば、その「子供」と「誰か」の関係であって、派生する関係性は関係ないはずです。

そういう関係性を延々と持ち続けていると、いつまでも夫婦喧嘩の際に親を出すような人になってしまうのです。

下手に拡大した自我領域を持ちながら、親子の間柄は強固な割にそれ以外との壁が非常に大きくなってしまっています。

で、すべての存在が同じような関係性、というくらいになればいいのですが、中途半端に区切りをつけて分離しながら、一部を強固に関係づけています。

そして次のような言葉を使います。

「絆」

おそらく今日もどこかでノアやボクシーに乗ってイオンモールに行っていることでしょう。

罰する正義 曙光 78

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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